電子書籍はゴミだ

少なくとも楽天はそう思っているのだろう。Rabooの終了が意味するのは、端末が故障したらRabooで購入した電子書籍は跡形もなく消え去ると言うことだ。
たぶん、電子書籍というのは、サービスを売っているのと同じと考えるべきなのだ。少なくとも現時点では。決してモノを買っていると思ってはならない。電子書籍の値段はサービスの値段だ。運がよければそれはモノを買ったのと同じ価値を持つかもしれない。そのような状況下における電子書籍の値段は高すぎるのではないのか。
書籍の著者からするとそんなこといわれても…と思ってしまうだろう。クソな電子書籍サービスにおいても、真っ当な電子書籍サービスにおいても書籍の内容自体は等価値であり、サービスの違いによって値段が大きく変動しても困ってしまうだろう。消費されるだけのテキストなど、クソサービスで、クソ安く販売されても消費者的にはウェルカムなのであるから。
実は、電子書籍の登場によって(あるいはWebの一般化によって)、書籍の体をなしてなければならないモノは世の中それほど多くはない、ということがばれてしまったのである。雑誌や新聞が、あるいは新書が提供するもののかなりの部分は、情報お届けサービスにすぎない。もちろん、そのことは価値が低いと言うことは意味していない。印刷物と言う形態を必然としていない、というだけだ。
印刷物であることによる機能を考えると、必然である機能は、単体で残ること、残す事が可能であることだろう。所有の概念が現状のままである限り、そこが大きく変わる事はないだろう。
かつて、出版という行為は世にコンテンツをばら撒くために必要だった。今は世にばら撒く行為においては出版を必ずしも必要としない。で、あるならば、電子書籍という得体のしれない「モノ」は何のために存在するんだろう。書籍とはコンテンツの内容そのものを意味するのではない。保存形式であり、フォーマットであり、再生装置である。電子書籍には再生装置が付随していない。電子書籍はそれ単体では保存形式にならない(必ず何らかのデバイスの保存形式に依存するという意味で)。電子書籍のフォーマットは人間系では読み取れない。であれば、それは本来書籍なんて呼べる代物ではないのだ。
コンテンツの概念をきちんとしよう。所有の概念を変えよう。著作権と出版の関係を清算しよう。サービスであることをはっきりさせよう。著作者と編集者の権利を整理しよう。そういった過程を経て、新しいコンテンツメディアとしての形態を獲得することで、電子書籍は書籍としての軛から解き放たれる。