電子書籍とコンテンツ所有の概念について考える

ついにkindleも上陸し今年は電子書籍元年になるか!という空気になってきましたが、一方でAmazonの業績はいろいろあって芳しくなく、その他のネット企業も軒並み業績を落としている中で今のスキームは本当に大丈夫なんだろうかと心配もあります。
以下、大雑把で主観的すぎるかもしれませんが、あらためて書籍と言うコンテンツの形態とその意義について考えて見たいと思います。
ウェブ時代になって我々は息を吸うようにコンテンツを消費していますけれども、そうなっている原因の一つに、映像文化がテレビとともに歩んできたことが大きいのではないかと思います。テレビは広い意味では我々がお金を払っているのですが、単体で番組を考えた時に、その一つ一つはタダです。その代わり、基本的にはその場に居合わせて一度だけ見ることしかできない。これはビデオの登場によって変わって行きましたが、それでも録画はその時しかできない。その代替として番組がパッケージ販売されることもありましたが買う人はそれほどいなかったかと思います(高かったしね。
しかし、レンタルビデオの登場です。そこでまた話が少し変わりました。メディアを借りることが見る権利を得ることにつながる。ところが、ダビングを気軽にできるようになったことでそこにも変化が出てきます。一度借りたら俺のもの的な。パッケージの所有は高品質コンテンツの所有権に近くなって行きます。これすらも、DVDの登場とPCの普及によって揺らいで行きます。かくして、映像コンテンツにおけるメディアの役割は移送手段に帰結しました。テレビにおいても配布コストが下がったことによって番組のパッケージ売りも広がって行きましたが、その商品価値は地デジやウェブ配信の登場によって宙ぶらりんになって来ています。
おんなじことは音楽をはじめとした音声メディアとラジオの関係性にも当てはまりますね。
とまあ、非常に大雑把に述べて見ましたが、映像、音楽のコンテンツにおいて重要なのは、再生装置ありきのコンテンツであったということです。メディアははじめからコンテンツを乗せるためのものでしかありません。所有の概念は(法的にはともかく)ずっと曖昧だったと言えなくもないと思います。
一方で、書籍においては比較的所有の概念ははっきりしていたと思っています。それは、書籍において複製コストがペイしないものであり、印刷物の一人勝ちだったことに原因があると思います。かつてコンテンツを所有するためにはそれを写すしかなかった頃。古来から、文書と絵のコンテンツとしての違いは複製容易性にあったと思いますが(それは絵に限らず美術品全般においてそうですね)、文書は時間さえかければ複製は容易でした。しかし、時間は半端なくかかる。印刷技術の発展で我々が得たのはこの時間といっても良いでしょう。かくして文書の複製コストは劇的に下がりました。印刷物は個人の手に渡りました。ここで重要なのは、コンテンツを写すと言うコストが膨大であったからこそ、それを大幅に軽減した印刷物に対して適正な価値が見出されたということです。さて、もともと西洋における印刷は聖書と共にスタートしたわけですが、そこでは結果として、聖書を所有する権利を売っていたと言うことになります。
さて、映像、音楽コンテンツと書籍の違いは何か。それは前者が再生装置とコンテンツの配信という形態をとっていて、その再生装置もどんどん変わっていっているのに対し、後者は一貫してコンテンツとメディア=再生装置の組み合わせでという単一の形態で変化することなく売られて来たと言うことです。
(この点については音楽におけるレコードという形態から話を始めるとまた違った議論になりますがここでは触れません)
つまり、ウェブの登場によって、印刷の普及以来の大きな変化がテキストデータ(とあえていいます)にもたらされた、というのが今起きていることなんですよね。その前に青焼きやゼロックスコピーの発明はありましたが、コスト面でいうと印刷に変わるものではなく、印刷の補助的な手段にすぎませんでした。
さて、こうして人々が手にいれた新しいテキストデータのあり方についてはしかし、今だにきちんとした形で価値の創造がなされていません。映像、音楽についてはメディアすなわち複製コストに価値を見出すという、本来のこれらのコンテンツのあり方から外れた方向に一時は迷走しました(CDと同じようにDVDが売れてしまったのも一因だしそれによってCDというあり方が正しいものになってしまったということでもあります)が、コンテンツを見る権利をいかにして所有するのか、という方向にシフトしつつあるように見えます(それを必要に応じていかに恒久的なものにするかが課題でしょうね)。
一方でテキストデータについては所有の概念が強いこともあって、いまいちドラスティックな概念の変更に至っていません。その一つの理由はメディア、フォーマットの違いによるコンテンツの価値創造という点にとらわれているからではないかと思います。すなわち、書籍とは所詮テキストデータ(場合によっては画像データ)である、という結論に満足できていない。音楽はこれを諦めつつあります(ブックレットも紙である必要はない)。CDはあくまで配布メディアの一つであり、また、ポータビリティの確保に当面は貢献するでしょう。しかし、いらなくなるのは時間の問題です。また、映像にははなからそんなパッケージングがなされてなかった。これらの存在意義はコンテンツの所有形態にきちんとした再定義がなされたところで終わりを告げるかもしれません。
というわけで話を戻しますと、書籍においてはパソコンやそれに類する電子データを扱える端末の所有が一般的になってようやくコンテンツの中身が商品である、という概念が成立したということです。しかしながら、もともと体験型ではないコンテンツである書籍です。ものとしての概念は他のコンテンツに比べて強く染み付いています。メディアを買うわけではない分、再生装置との関係性もイメージしづらいですよね。実際には若いユーザーにとって音楽とは音楽ファイルである(本当はここからも自由になりつつありますが)のと同様書籍もすでに電子ファイルである、という世代もあるんじゃないかとは思いますがそうは言っても本とはどういうものであるかを知らない人はいないでしょう。
最近の議論で、書籍とはコンテンツの所有ではなく読む権利の一時的な付与ではないか、というものがありました。サービスとしてのコンテンツサービスならそれで良いのですが、やはり書籍と言った場合には所有ということから切り離すのは難しいのではと思っています。でも、これはまだまだ議論の余地があります。何にどう値段をつけるかというのはいつだって社会が考えなければならないことで、常に変容するものですから。所有にこだわると財産という話にもなるし、譲渡や相続の話も出てきます。文化を形作るのはそれを受け継ぐための仕組みも一役買っている、と言うことも所有と言う形態が重要な理由と言えるのではないでしょうか。仮に、すべての商業テキストはクラウド上にのみ存在し、幾ばくかの費用でいつでもどこでも読める、となったときにテキストデータの価値はどうなってしまうのか。現時点、僕は答えを持っていませんが、果たして労力にみあった価値を持ちうるのか。特に学術書においては。また、美術品に類するであろう稀観本というのも位置付けの難しいところ。一方で雑誌みたいなものはサービス化が進むのではないかと思います。
ちょっと簡単に結論を出せる話ではありませんが、電子書籍の今後を考えるためには、こう言った議論を通してコンテンツの所有とは何を意味するのかということについて納得感のある定義をしていかなければなりませんね。今は、サービス側の都合により一方的に決まっています。そのことが間違いだと言うわけではありません。しかし、今だ電子データを所有することへのしっくりこない感じを解消していかないと、電子書籍が目指すべき到達点も曖昧なままです。
以上、事実関係についてはかなり主観による決めつけではありますが、イメージを膨らませてみました。kindleの登場は明らかに一つの大きな転機となるでしょう。しかし、まだ電子書籍の挑戦は始まったばかりです。このままデバイスとサービスによる既成事実がデファクトスタンダードを作っていくのか、はたまたユーザーの想いが未来を描いていくのか、まだまだわかりませんけれども、行く末に注目しつつ、自分なりに考えていきたいですね。