挨拶なんてしなくていい

たまにはいいこと言うじゃん。とタイトル見て思ったわけですが…

「ちゃんと挨拶しろ」みたいな説教って、うっとおしく感じます。で、なぜ嫌なのかを考えてみました。

「挨拶ができない」ことに悩む必要などない。 : まだ東京で消耗してるの?

冒頭からダメだった…
「ちゃんと挨拶しろ」というのを説教と感じるのはわからんでもありません。でも、それって実際にはコミュニティーのルールの伝達なんですよ。挨拶なんてしなくて良い世界は(イケダハヤト師には以外だろうけど)多様性を許容出来る会社組織の中にあったりします。そうじゃない会社のほうが多いだろうけど、うちの会社は挨拶できない人のことを気にもとめない(とはいえ、それがために悪評が立つような立ち回りをしたら評価が下がりますが)。
でも、あえて「挨拶しろ」というのはその界隈が挨拶をすることで円滑なコミュニケーションが取れるんだ、ということの提示ですよ。上から目線とか説教とか考えているのであれば、そもそもそういう界隈には近づかないのが正解です。

そうですね……挨拶スキルなんて、エクセルのスキルみたいなものだと考えましょうよ。エクセルはできた方がいいけど、別にできなくても人間的な価値が落ちるわけではありません。同様に、挨拶はできた方がいいけど、別にできなくても人間的な価値が落ちるわけではありません。

「挨拶ができない」ことに悩む必要などない。 : まだ東京で消耗してるの?

人間的な価値、という言葉をどう定義するかにもよりますけれども、社会性という部分については、儀礼プロトコルを尊重する(守る、ではなく尊重する、ですよ)というのは一つの大きな価値と見做されていると思います。挨拶というもっとも基本的なプロトコルについて、その意味を考えることがあってもいいんじゃないでしょうかね。エクセルのスキルが採用のためのスキルだったりする場合があります。それはそのコミュニティーにとって人間の価値です。それよりも汎用的なスキルである挨拶はより多くの箇所で人間的な価値と思われているんじゃないでしょうか。

先に述べたとおり、僕自身はそれほど挨拶について必然性をいだいていません。どちらかというと苦手な方かもしれない。だから必要でない場合はしないこともあります。でも儀礼として必要な場合(年末最終出勤の時にお客様の上役に挨拶に行くとかね)は普通に行きますよ。それでコミュニケーションが円滑になるのであれば自分にとっても相手にとってもプラスなんですから、あえてプラスになることを忌避する必然性がありません。
なので

いっそ気持ちいいのは「オレは正直、おまえの態度の不快感を抱いた。オレに対しては、ちゃんと挨拶をするように心がけろ。その方がオレは仕事がしやすいんだ」と、包み隠さず伝えてくれることです。あくまで個人間のコミュニケーションの問題、ということですね。

「挨拶ができない」ことに悩む必要などない。 : まだ東京で消耗してるの?

というのはとても同意できるわけですが、徳力さんが言いたいのはそういうことですよ?「(オレに対して)礼儀を忘れるな、という意識」なんてあえて言わなくてもいいわけです。これは純粋に感受性の問題なのかな?だから

それを変に恩着せがましく「”世の中”は挨拶が重要だ。おまえは挨拶に気を配った方がいい。」と、大きな主語で善人ぶって伝えるのは、どうにも「ずるさ」を感じてしまいます。個人対個人ではなく、個人対集団という構図にしてしまう「ずるさ」です。

「挨拶ができない」ことに悩む必要などない。 : まだ東京で消耗してるの?

というのは一見正しい分析に見えるけれども、「こちらから集団に歩み寄ることはしねーよ!俺という個を尊重しろよ!」という意味では個人対集団という構図にしてしまうずるさは反対側からも言えるんですよ。

変なコンプレックス的なこと感じてないで挨拶してみんなでしあわせになろうぜ!