なんかよくわからないのを受信したので考えてみよう

うーん、典型的な小倉先生論法ではないかと思われますが。
まず、例えば児童ポルノ規制法の問題については「活用する気がないかどうかに関わらず危険なものになっているから反対」なんではないの?これは自民党の人がどう言おうが目の前のある法律の条文解釈の問題なんではないのかな?だから、僕はこれを批判することを藁人形だと思いませんよ。法案という事実が厳然と横たわっているわけですから。憲法案にしても同様。
だから「Novtan流」にいうと藁人形になるかというとなりません。
でもちょっと進歩が見れる。「Novtanさん的には自民党憲法案に反対する人は藁人形論法の人だということですね」という言ってないことから導く断定形になっていない。これならまだ「あれ、言い方悪かったかな?」的な感想で済んだりしますね。

えっと、もう一回整理するけど、言った言わないの問題からある程度自由になるのはそこに蓋然性があるかどうかです。それでも意図を断定することは難しい。例えば、僕が賛成派の議員に対して「そんな建前を言っているけど本音は言論弾圧だろ?」というかどうか。うーん、確かにあの法案にはそういう危険性がある。でも、それがためにそれこそが目的だ、とは結論付けないと思う。とはいえ、これを利用して言論弾圧を可能にしようとしている人がいるかもしれない、という「邪推」くらいはする。でも賛成派の議員の明確な意図として直接ぶつけるかというとね…

というくらいは葛藤があるわけですよ。ただ、誰かがそういう意図を持っているかどうかという邪推をする必要もなくあの法案を非難することはできるから、建設的な話としてはそれだけをするべきだとは思うわけですね。

そりゃあ僕だって「XXって言うなんてXXと思っているとしか思えない」みたいな言い方しますよ。でもその適用範囲は狭いし、その他のものに敷衍させたりはしないようにしている(と思っているけど)。

推論を立てるときにはどうしても真実かどうかわからない部分について補完して考えなければならないことがあるけど、その部分は「あくまで推測だけど」というニュアンスをきちんと自分でコントロールすべきなんですよね。物言いのリテラルな部分について皮肉気味に批判するとそういう形になることは多いけど、だからといって言っていないことを持って何かを断定するってことはあんまりしないとも思う(これについては攻撃的になっているときはそうでもないかもしれない)。

冒頭の話で言うと、「自民党もあの憲法案について趣旨を聞かれれば、「反対派を弾圧するために活用する気はない」っていうだろうから、」という部分についてはちゃんと建前として受け止めるべきなんですよね。でも、「Novtan流に言えば、自民党憲法案に反対する人は藁人形の人ということになるんだろうね。 」という風に言えるってことは小倉先生的にはあの憲法案は明らかに反対派を弾圧するために活用する気があって作っている、と断定しているわけですよね。それ本当に断定できるの?で、そんな話の真実を突き止めることに実質的な意味があるのかな?
僕がもし「Novtan流に言えば、自民党憲法案に反対する人は藁人形の人」というのであれば、その前提は自民党憲法案には反対派を弾圧するために活用するためのものとしては使えないことが自明であり、かつ、自民党憲法案の反対派が一人残らず(これ大事よ)反対派を弾圧するために活用するためだから駄目だ、と批判している場合だけですよ。でも、例えば反対派の一部のみがそういう誤解を持って批判しているだけだったり、反対派を弾圧するために活用することがある程度はっきりしている状況の中で「自民党憲法案に反対する人は藁人形の人」なんて言ったらそりゃ批判されますよね。後者をよくやるのが小倉先生論法だと思っていますが(何かにつけ「卑怯な匿名さん」という言葉で匿名の人全体を批判するとかね)。
ここでいう藁人形論法ってのは、そんな意図を持って言っている人が誰も居ないのに、その意図を持った人がいるかのように同じ属性の人をまとめて批判するような行為です。
冒頭の例はそれには中々当てはまらないケースですよね。