ホメオパシー批判から始めるエビデンス主義

接触りには行かないけど、なんだか変な議論になっているみたいなので。

例として上げるためにはホメオパシーは非常に典型を持っています。「なぜ二重盲検法を使わなければならないのか」の理解にはとても役に立つ事例だと思います。科学的な思考で、時として問題点に上げられる「ないとはいえない(証拠はない)」、と言うのはそうは言っても脆弱にして強固であるというわかりやすい基準でもあります。つまり、「信頼のおける証拠」があれば簡単に否定できる(=証明できる)し、それができないのであれば、どうやっても付き崩れない。なので、エビデンスを取れない疑似科学やニセ医療などは別の角度から攻撃されがちですが、悪魔の証明と違って、出来ることを証明すればいいという単純な壁なんですけどね。それが崩れせないということは悲しいまでに信頼出来ない主張だということです。

とは言え、「かもしれない」ことに我々は非常に弱い。夢とか希望に類する類のものは言うまでもなく、実際に起きていることの解釈においてもそれは適用されがちなんですよね。複数の解釈によって説明できるとき、その解釈を否定できるのかどうか。例えば、超常現象で説明できる(エビデンスなし)と科学で説明することができる(エビデンスあるいは過去の知見からの蓋然性のある類推あり)では後者を選ぶというのがあるべき態度だと僕は思っていますが、前者について全否定をすることは難しい。前者の可能性をあくまで追い求めたい人に対して、それを科学的態度でないということで批判するというのは実は難しいのかもしれません。

ともあれ、そういう態度に対して「それはホメオパシーがやっていることと同じである」という批判は今やそれなりに共通認識のあるホメオパシーのまずさを理解している人から見たら言葉を省略できる有用な説明だと思うし、それに対する態度によって相手の大まかな理解度を把握することもできる、という利点もあります。また、現実から目を背けることによって実害が生まれている、という事実に対して人の考えだから尊重してほうっておく、という態度をとるかどうかという点もわりと判明しがち。

ただ、そのベースラインがあると期待される人に対してそれを説明したらわかってもらえない、という事態になるとちょっと悲しいですけどね。