今回の市議自殺の件で正義を語った人間はネットから退場な

もう一度整理してみる。

まず、死ねって言った奴らへの非難。確かにその非難には一理ある。でさ、批判しているお前らって人間は「死ね」って言われて傷ついたら死ぬし、「バカ」って言われて傷ついたら馬鹿になるって思っているわけ?バカって言われて傷ついて死ぬかもしれないし、社畜呼ばわりに絶望するかもしれないし、ブラック会社を辞められない自分に絶望して死を選ぶかもしれないんだよ?なんで死ねって言わなかった自分がさも正しい側に立っているかのように非難できるわけ?お前らもまとめて退場しろよ、自分の規範に従ってさ。

次。普段責任なんて取りませんよって言っているのに急に発言には責任がありますって言い出しちゃっている奴。おめー散々責任取らない発言を非難されてサンドバッグ宣言とかしてんじゃん。今更他人に言葉の責任を語る資格とかあると思ってんの?過去のエントリ全部消してから言え。

とはいえ、簡単に死ねとか人に言うのはどうかと思う。その点に関してはホントどうかと思う。

後は私見です。

表現の自由と文責の所在については、ウェブという個によったメディアにおけるコントロールをいかにするのかということは長らくテーマとして書いてきているけれども明確な答えは得られない。今回のようなことが起こるとことさらに「責任」がクローズアップされるけれども、ウェブ民が他者の隠されているパーソナルな情報をほじくり出して中傷しているという話ならともかく、公開したエピソードが非難されているわけで、これは「書くべきもののコントロール」という点で「表現の自由と文責の所在」として考える側の問題ではある。未成年の喫煙飲酒やいじめ告白が追い詰められるのと等価。目の前に提示された不正義に対して観客は騒ぐ以外のすべを持たない。
なお、今回の話に限って言うと、そこにニュースバリューを嗅ぎつけた某ウェブメディアやマスコミが無配慮にほじった事が直接の原因っぽい。

で、そういう話とは関係なく、どこまで他人を非難すべきか、という話はある。議論がエスカレートして中傷合戦みたいなのは本人にも納得感があるだろうけど、一方的な攻撃についてはそうも行かない。

「死ね」はNGワードだと思うが、じゃあどこまでの言葉ならOKなのか。そんな基準は作れない。仮に「お前のせいであいつは自殺した」と訴えられて、「特段強い言葉があったわけでもない」と判断されて無罪になったとしても、自殺があった事実が覆るわけではない。

子供の話をしていただけで、「子供のできない私に対するあてつけだ」とクレームが上がる世界だ。ウェブで他者を傷つけないと誓うのは何も書かないと宣言するに等しい。何かを書くことは常に他人を傷つける可能性があるのだ。

では、責任はどうあるべきか。何を言ってみたところで、何かを発信したことへの責任は多かれ少なかれ発生すると思っている。問題は、その責任をどう扱うか。人の死を背負えるのか。背負うしかないんだろうな。今回は単にネットを端緒としたものだったから多数の中傷だと取り沙汰されているけれども、既存マスコミによる中傷=視聴者読者数分の中傷に等しいと考えるとメディアが人を追い詰めた事例なんて枚挙の暇がないくらいでウェブのほうが対話可能な分まだましレベルだと思わなくもない。

何かを発信することで人の人生が変わってしまうかもしれない。そのくらいの認識を持ちながら、それでも発信し続けることが覚悟というものだろう。決して「言葉を選べばそういう事態は起きない」なんて甘いもんではない。「死ね」と言わなかったこと自体が正義ではないことは認識すべきだし、死ねと言わないことを理性として標榜しているような人間はいつか意図せず間接的に人を殺すんではないだろうか。