金子勇とWinnyの功罪

曲がりなりにもIT系の端くれとして、耳に入ってくる話がかなりこの件で埋まっている。天才プログラマーとしての彼を惜しむ声は多い。僕も彼の才能には敬意を表し、また、その早逝を惜しむ。残念だ。しかし、天才プログラマーとしての彼を無条件で褒め称える声が多いことに違和感を覚えるため(もっとも、こういうときに、個人的な交友関係がある人はプラス方面を評価するのが礼儀というものなのかもしれないが、しがらみのない人間として)、これを機会にWinnyとは何だったかを簡単にではあるが振り返っておきたい。

分散型P2Pとして、匿名性をウリに登場したWinnyの背景には、当時社会問題にもなった、WinMXによる著作権侵害行為が摘発され始めていたということは確実にある。それは、Winnyを生み出した金子氏が2ちゃんねるダウンロード板(当時、WinMXなどの交換情報などであふれていた、違法な著作物入手を意図している人たちの集まり)に「47氏」として降臨したことからも明らかだ。ファイル交換において、匿名性が求められていた中で突如現れた、しかも日本語のソフトウェア。瞬く間にアングラ界を席巻したであろうことは想像に難くない。

なぜ、金子氏は匿名で、かつ、犯罪行為の温床とも言える場でこれを発表しなければならなかったのか。それが、単なる実験だったのか、フリーマインドのなせるものだったのか、今となっては知りうることではないが、少なくとも、そこにあった著作権侵害行為を助長した結果になったことだけは間違いない。

よく、この手のソフトウェアを「包丁」にたとえ、使った側が悪いとして擁護されることはある。個人的には、当時の法的な問題としてはそうだろう。未だにあの逮捕は(少なくとも容疑としては)間違いであると思っている。しかし、そのたとえでいうと「あー人殺してえ…アシのつかない包丁さえあれば殺すのに」って言っているような人間が群れているところに包丁を無償で提供するようなものである。包丁自体に罪はない。が、道義的責任は問われるのではないだろうか、というのがこの事実についての僕の評価ではある。堂々と、発表すべきではなかったのか。しかし、それだと結局のところ意図したとおりに使われず、結果として成果を得ることはできなかったかもしれない。しかし、ブラム・コーエンはBitTorrentを匿名で発表しているわけではない。

かくして、ダウンロード板で受け入れられたそれは、ゲーム、音楽、映像コンテンツの違法な流出のみならず、児童ポルノやかの「キンタマウイルス」の被害による会社情報、個人情報の流出に貢献した。それ以外の(社会的に有益な)功績はなかったに等しい。かくして、分散型P2Pは「匿名化された違法なファイル交換ソフト」というレッテルを貼られ、忌み嫌われる存在に堕した。ウイルスの被害が広がるなかで、高木先生が撲滅に動いていたのは記憶にあたらしいところだ。

彼を個人的に知る人達は、総じて「邪気のない天才」とする。しかし、47氏としての彼は果たして無邪気な天才だったのか。仮にそうだとしたら、僕には無邪気さ故に対象に冷徹な実験者のそれであると思えるし、そうでないのであれば、彼はダークヒーローとあらんとしたのか。個人としてついぞ知る機会のなかった彼の意図については僕は想像することしかできないけれども。

僕もWinnyには間接的にだが被害を受けた。Winnyそのものが邪悪だ、とは言わない。しかし、ツールとして不完全な問題を残したまま、違法な使い方が想定されるところに投げ込まれたこと自体は良くなかったのではないだろうか。