「風立ちぬ」のタバコ表現へのクレームについて考える

大変批判を浴びている当件ですが、実際問題この手の話はもうだいぶ前から問題になっていて、過去の映画を修正する話にだってなっています。日本なんてまだタバコに対する規制が生ぬるい国なので余計にクローズアップされがちですが、こういうクレームが上がるのはもう当然の世の中なんでしょうね。

僕の立場を最初に表明しておくと、タバコは吸わない(元々吸わない)が、他人がタバコを吸う事自体は許容するし、タバコを吸う場にいることもものすごい苦痛というわけではない。ただし、家に帰って体や物が煙草臭いのが嫌だ、というところです。まあ、みんなタバコを吸わないほうが健康上の問題も含めて幸せだと思うんだけど、それで精神が安定するなら吸いなよと思わなくもない程度です。

さて、問題の件。映画のネタバレごめん。

特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったのでしょうか。他の方法でも十分表現できたはずです。

映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望と見解)8月16日改訂版 日本禁煙学会

映画見てませんが、映画評を見る限り、主人公の非人間性(目的のために悪魔に魂を売ったという意味での)を表現する手段としてはこれ以上の表現はないんじゃないでしょうかって話ですよね(当見解は憶測に基づいていますw)。肺結核にタバコ!見てるほうがドキドキしてしまうレベルです。これはタバコじゃないとダメなんじゃないかなー。

また、学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります。

映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望と見解)8月16日改訂版 日本禁煙学会

これなんかはまあ確かに時代的表現として必要だったのかどうか微妙なところです。

ええと、昔、土山しげる先生の「食キング」でタバコ嫌い(でグルメ)の映画スターが、どうしてもこの映画にはタバコのシーンが必要なんだと言うのを断固拒否して、このご時世、今更タバコで表現もないだろ、代わりにラーメンを並んで食べるのはどうだろう(wwwwww)というシーンを描いたことがありましてですね。

食キング 1

食キング 1

現代劇にタバコが必要か、というのはさておき、過去を描いた作品において、その当時の風俗の象徴としてのタバコってのが必要かどうか。これは難しいところです。これが麻薬だったら吸っておかしくなっている描写とかでヤバイことが表現できるかもしれないけど、タバコって短期的には害が無さそうなので吸っている姿のかっこ良さがクローズアップされがちなんですよね。
時代劇やっても今頃はお歯黒とか見たことないのは、それが現代の価値観の上では美しくないからだと思うんですよね。そうなると、タバコカッコワルイという価値観が浸透することによって自然とタバコ表現が減っていくし、過去の映画のシーンは不可解になっていく(当時はタバコを吸うことがかっこいいと見做されていて…というような解説がついちゃったりして)んじゃないかと思いますが、すぐには難しいかもしれませんね。

なんにせよ、こういうクレームが「表現の自由が云々」と批判されるのはそれはそれで健全なんですが、それでもなおタバコは良くないよ、かっこ良くもないよ、とアピールする姿勢ってのは大事だと思うし、実を結ぶのは先かもしれないけれども無意味なことではないと思うんですよね。
惜しむらくは、条例云々でのクレームよりはもうちょっと根源的な部分でやってほしかったというところです。例えば、当時学生がタバコを吸うことはどう見做されていたかとか、それによって現在の喫煙人口がどうなっているとか、そういう文化的背景と現代の価値観との衝突を分析してみるとかね。適当だけど。
禁煙学会が世の中を動かすためには、害のアピールとともに、世の中へ価値観の転換を訴えることが必要で、その一つとしてこのクレームが果たす役割は大きいんだと思うんですが、「法律や条例で決まっています」では価値観のアピールにならないのですから、もうちょっと何とかしてほしいものです。