「社会的に悪いこと」に対する「無条件の寛容」を示してはならない

冷蔵庫に入るのは
この話を僕はそう捉えた。

若者のアホな行為について、実害がないあるいは小さいあるいは若者の将来をふまえて、赦すという行為はある種の寛容からなるものだ。ただ、寛容というのは極めて文脈依存の行為であり、個別具体的な、容易にその社会的文脈が明らかでない行為に対して具体的に寛容を示すというのは単に社会的規範(場合によってはそれは法律そのものだ)を再定義することに近い場合がある。例えば、親告罪を申告しないことが赦しであるとしたら、その赦しは当事者以外には不可能な行為であって、客観的にその行為を提示された者にとっては社会的規範に従い、それは悪だと糾弾する対象なのだ。

つまり、今回の問題の核心は(すでに指摘されているけれども)ローカルの中であれば適用可能であるかもしれない寛容はグローバルに公開された瞬間、社会的規範の文脈によって批判される運命にあるということだ。いうなれば、寛容は利害関係者が示すものであって、(社会全体が利害関係を持つような問題以外では)社会が寛容を示すことは基本的にはない。

犯罪を決定することについてもそれは適用されている。特にわかりやすいのが著作権絡みの話だろう。もっとも寛容とは逆の方向に行くことが多いけれども。

ただ、「いいよ、許してあげようよ」ということが不可能かというと、全然そんなことはない。社会的文脈における寛容は「悪いこと」を認めるところからスタートする。つまり裁判における情状酌量というのが社会的文脈における寛容というものなんだろう。「そんな大したことないものを問題にするなよ」というのはNGであり、「悪いことは悪いけれども、その償いはこの程度であるべき。今は追求されすぎ」というのはOKだと思う。多分にニュアンスの違いでしかない部分はあるけれども、そのニュアンスこそが社会を社会として成立させている空気というものであろう。

逆に本来の行為に対しての責任以上の結果(極端な話、人生の破滅)を求めるような叩き方をする側も、社会的文脈において悪とみなされるおそれがある。叩きすぎに対する抑止力はそれであるべきで、馬鹿な行為を馬鹿であるとし、適切な処置をとる(しかるべき場所に通報するなど)はともかく、関係ない個人情報を公開したり必要以上に侮蔑する行為は同様に馬鹿な行為であり、適切な処置を取られてしまう可能性があるということをすべての人は意識すべきなんである。