ヘイトスピーチ禁止は表現の自由にとってどれほどの問題なのか

非常に残念な話ではあるけれども、表現の「自由」は留保付きの自由である。まあ全ての自由がそうなんだけどね。もちろん、それは権力側から見た一面でしか無い。何をどう禁止しようが、信念を貫いて表現を行うというのは古来から繰り返されてきた表現者と為政者の戦いである。一方で、そういう部分とはかけ離れた政治的主張において、表現の自由を盾にとりヘイトスピーチをする、というのは表現の自由に対する冒涜であり、ズルであると思うんですよね。

とはいえ、表現の自由というのは権力を告発するために確保されているものである、という面もありますからめんどくさい。

芸術の分野、社会秩序の分野、民主政治の分野それぞれにおいて保証されるべき表現の自由というのは細かく階層化されるべきものなんだけれども、実際にはどれがどれであるかということを区別することは難しい。包括的な考え方で言うとまとめて規制せざるを得ない部分はあって、それが各国における「ヘイトスピーチ禁止」の実態なんだと思うんですよ。当然ながら、芸術の分野であると自らが信じているものは包括的な規制がいかなるものであれど自らの表現を表現の自由に照らして正当化できるという信念に基づいて表現を行い、また世間がそれを認めるということもあるだろうし、ヘイトの対象の前で街宣をする行為は悉く取り締まりの対象になるという社会が矛盾しているとは僕は思わないわけです。

そのために、差別的な言説は、時に人々を無批判に熱狂させることがある。そして、稀なケースでは、その熱狂に国民の多くが流され、例えば極右政党が政権を握ることになり、最終的には表現の自由が強く抑圧されることになる。このように、表現の自由を入口とした差別的言説が最終的に表現の自由を侵害するようなことにならないよう、ヘイトスピーチ規制は存在している。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20131008/254314/

まあそういうことだと思う。

ただ、最後に挙げられているこれ。

ヘイトスピーチを法律で禁じることについて個人的に心配になるのは、それが(一部の人の人権を守るためとはいえ)思考停止につながっていかないかということだ。議論の余地を奪われた分野は、中長期的には必ず知の劣化を招く。例えば、「社会主義共産主義国家において歴史研究の水準が低くなったのは、公式に認められた歴史以外の歴史を語ること、それに疑問を投げかけることが許されなかったからだ」、とある歴史学者が話していた。韓国における現代史においても、同様の空気を感じる。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20131008/254314/?P=4

ってどっちかというとヘイトスピーチを許すことの弊害じゃないのかしらん。特に韓国における現代史って日本ヘイトが原因じゃないのかなあ。
一方で、ナチスのやったことへの「評価」が抑圧されていることも事実だから難しいんだけどね。

ともあれ、知の劣化というのは知への情熱が左右される部分はあると思いますので、場合によっては「表現の自由」ですら敵であるということは考えておいたほうがよさそうです。