「わからない」より「わかる」ほうが全然素晴らしい

音楽は楽しめれば正解っていうのはある一面では正しいけれども、本当はわかったほうがもっと楽しい(時として悲しい)というのもまた事実であります。

ケージの音楽を聞いて、退屈でアクビをしたり、こんなもん音楽じゃないと怒り出すよりよほどいい。
とはいえそれもまた感想としては正しい。

怒り新党「新三大ジョン・ケージの音楽」がわからなかった人へのガイド #2 「わからない」と言う感想 - あざなえるなわのごとし

ケージ、特に4:33なんてのは分かりやすさの極みだと思うんだけど、ここで言っているわからないってのは「どうしてそれがいいものなのか理解できない」「俺の知っている音楽というものではない」という観念的な部分についての話だよね。多分、説明すれば「それがいいものなのかはともかく何をしたいのかは分かった」と言ってもらえることでしょう(だからその前のエントリ書いたんだよね?)

歌をうたう鳥が獲得してから脈々と引き継がれてきた音を聴き分けるという能力は人間の思考能力と結びついて音楽という芸術を生み出したわけです。何も知らなくても協和音と不協和音を聴き分ける能力くらいは生来のものとして獲得している人間ですが、音楽というものについては感覚的な部分と論理的な部分が同居しているものです。

わかりやすいのでよく例に上げる体験談ですが、大学行ってジャズを始めて「これ聞いとけ」的なものの中にマイルスの「kind of blue」があったわけさ。当然だけど、「この人達何やってるのかよくわからない。かっこいいのコレ?」という疑問が。僕にはジャズの受容体がなかったのです。1年くらい、スイング・ジャズとかバップとかハードバップとか聞いていると、ジャズの骨格というものが見えてくる。何がかっこいいのかを「理解」し始めているんですよね。そんな時に、もう一度聴いた「kind of blue」の衝撃といったら。
色んな物を聴いた結果、昔は「ただうるさいだけ」と思っていたハードロック的なものも良さがわかるようになったりして。

「こんなの音楽じゃない」というのには既成の音楽に対する価値観に基づいて発せられる言葉の場合もあるけど、そうじゃなくて、理解するための下地がなかったという場合もあります。現代音楽が難しいのは、既存の音楽というものを踏まえていないとそこからどう逸脱しているかがわからない、というものだから、ということがありますね。もっとも、そういうのとはかけ離れた破壊的な物もありますが…
フリージャズだってそう。ただ適当に演奏しまくっているだけだと「ジャズ」にはならないんだよね。

「わかる」ことの重要な点はそのほうが楽しいというのはもちろんですが、もう一つ大事な要素があります。それは「ダメなことがわかる」ということです。その道のプロに近づけば近づくほど、何がどうダメかをわかるようになります。それはある意味絶対的な評価軸です。素人評論家がプロに嫌われることがあるのは絶対的な評価軸がなく、ダメの評価が的外れであることが往々にしてあるからなのかと思っていますが、そういうこと。少なからず芸術というものは「楽しければ/綺麗ならばよい」を超越していく必要があるし、そのカウンターとしてのポップ・アートというものがある、ということを考えると、自ずから「真面目な」現代芸術に対してどのように向き合うかが見えてくると思います。

音楽なんてのはそこが渾然一体としていることにかけては他の芸術よりはるかに切り分けが難しいものだと思いますし、楽しければいいじゃんってのが最も通じる世界ではあります。だからこそ、こういう場ではもっともっとみんなに「わかる」ことを勧めたいし、僕ももっとわかるようになりたいと思っています。

「音楽が趣味」と思っている人は、少しずつでもいいから音楽をわかるようになりたいと思ってくれるととても楽しい未来が待っているんじゃないかと思います。

ただし、副作用があります。先に述べたとおり、「ダメなこともわかる」ので、今までいいと思っていたものが悪く思える時期があります。ただ、もっとわかっていくと、そういうのを超越して(例えば誰それの音痴はそれはそれで味わい深いとかw)楽しめるようになったりもします。最終的には自分が好きなモノにある程度の理屈が伴うといいんです。そのほうが面白いから。