Twitterで誤情報を流すことを単に「責任の問題」と考えていると大変なことになる

2014年もTwitterバカ発見機としての機能は衰えを見せませんね。

「この情報の発信者は、私ではありません。」 - Togetter

情報というものをデータとロジックに分解して考えると、ロジックが正しいかどうかについては自分の頭で考えることが可能(ただし理解するためには専門知のみならず天才的な思考能力がいる場合も多い)けれども、データについては出元を信頼するか、しないか(出来ないなら自分で集めることが出来るか)しかないんですよね。「XXが起きている(その原因は何である)」というのが単に垂れ流された時には自分の頭で考えることはソースに当たるなどの行為が必要になりますが、流しているがそれなりに「信頼に足る」という事実があることで検証を省略するというのは自然なことです。

逆に言うとですね、「俺は聞いたことを単に垂れ流すだけだから真偽はお前が確認しろ。それが自分の頭で考えることだ」という主張は自身の情報源としての責任を軽減する主張ではありますが、「俺の言うことは常に信頼ならないのだ」という自らの情報を発信する存在としての価値(Twitterで公的な立場で発現するのであればこれが全てですよね。私人として雑談する人ならともかく)を100%毀損しているということには気づくべきだと思います。

RTする情報に対する個人の責任なんて確かに大したものじゃありませんよね。でもその責任を回避することで得られる評価は「あいつは信用出来ない」です。どんなに言い繕ってもこれだけは撤回できません。

沈黙は金なりといいますが、間違った情報を垂れ流すくらいなら何も言わないほうがまだ評価が高くなるだろうということに、社会的な評価が必要な人は留意しておいたほうが良いと思います。