まあなんというか自己責任

社会の一員としてはより良い社会を実現するための努力をすべきなんだけど、そのより良い社会に抱く理想が「社会の責任は社会のもの、俺の責任は社会のもの」みたいな逆ジャイアニズムというかなんというかである人が混じっていると「規制は尊厳の制限!」「規範は価値観の押し付け!」「弱者のみが平等を主張する権利が!」みたいな話が浮上してきて、社会とは以下にして利益を最大化するかという存在であるという実運用上の概念からは遠く離れて行くだけということもままあります。ね。ね。
理想としてはもちろん問題なくて、理念として考えるべきことでもあるんだけど、現実の問題を解決するソリューションがそれに合わなかったら社会が悪いっていうのは人間は理想のために死すべきであり、犠牲は仕方がないというかむしろ問題をはっきりさせるためには積極的に犠牲者が生まれないと困るという風に見えてしまいがちではありますね。見えてしまいがちなだけですよ。当人がそう思っているとは全く思わないんですけど、理念を曲げて犠牲を防ぐぐらいなら理念を貫くべきと。とか言いつつ自分のわからないことになるととたんにそんなん無駄だよって言われても自衛はすべきだし行政が自衛を助けるべきって言っちゃったりしてね。

そういえば前ちょっと触れたアドバイス罪ってのはなかなか面白い概念なんだけど、単純に自分の経験や感情で物事を判断すると現実的な解を見逃すことはよくあるので、実は箸にも棒にもかからないみたいな他人の意見って自分の考えをアップデートするために案外有効だったりするんですよね。
だから仕事とかで何か問題を分析しなきゃならない時って、自分が専門的な知見を持っていたとしてもあらゆる可能性(といってもあらゆる可能性を把握はできないから思いつく限り)をリストアップして、前はそう思ってなかったけど案外これ有効じゃない?みたいなものが見いだせないかの検討を一度はしてみる、却下するなら「経験上」ではない理由をきちんと考えてみる、というのをやってみたりします。
これが過去の経験と環境が違うと過去の却下事由が当てはまらないケースなんてわりと多いんですよね。そんなことやっても無駄じゃね?っていう考えにも実験データが伴ってなくていざテストで実験してみたら有意な結果が出たとかね。自分の考えが正しいと思ったり、自分で思いついたことだけで答えを出すってのは個人の行動としては快感を伴うんだけど、社会全体で考えた時に最適な結果を選択していないことも多いんですよね。

なので、他人の考えを却下するときに検討の余地って本当に無いのかとか、目的の為に手段を選ばない状態になっていないかとか、選択の動機が感情に左右されすぎていないかとかそういう見直しはしてみたほうが良いんですよね。

だからそんなことやってみるまでもねーよバーカって言われた時は、じゃあ問題起きた時の責任は全部よろしくねってことですよねーって思うんだけど、そういう場合って大抵根本的な原因を外部に求めていて、こちら側のアプローチで何かが変わる可能性があろうがなかろうが全部外部の問題を解決することが唯一無二のソリューションであるっていう態度で臨んで責任とってもらえなかったりするわけですよ。
でもまあ僕らもこうやってウェブで大きな声で話しているわけですけど、実際に何がしかの責任が取れるのは自分の所属しているごく小さなコミュニティーの範囲でしかありませんしね。その枠から離れたところでの意見についてはじゃあまあ自己責任でどうぞと思うしかなかったりはするわけです。