刑事事件の証拠鑑定の客観性について

警察庁科学警察研究所科警研)鑑定の写真ネガの解析結果について、地裁は、検察の「本来の鑑定結果とは別に余分に出たもの」とする主張を採用し、弁護側の訴えを退けた。

飯塚事件の再審請求棄却 福岡地裁 弁護側、即時抗告へ:朝日新聞デジタル

という話。
通常、国家権力に付随するこういった機関は「国家の威信を賭けて公平」であるべきなんですけど、「国家の威信を賭けて有罪」に変容させてしまう圧力も強いことは想像に難くありません。特に、設立された当初は気骨のある人間がいたにしても、長く続くにつれ、守らなければならないものが積み上がっていってしまうという問題はどんな組織にもあります。企業であれば大企業がベンチャーに取って変わられるということもあるでしょうけれども、国家機関については革命でも起こらない限り何かが変わることはないと思われます。
日本はよく一つの国体をずっと護持してきたと言われますけれども、こと行政という点に関してはいろいろな形で革命(とまでは言えないかな)を繰り返してきた歴史はあります。そのたびに行政の主体は一応リセットされ、過去のしがらみがある程度排除された形で新しいものが出来てきています。
戦後70年、かなりのスピードで「守るべきもの」が積み上がってしまった日本は今そういう点での正念場を迎えていると思います。多分、昔の「悪事」がそろそろ情報公開とかで明らかにならざるを得ない部分も出てくるでしょう。そういった部分について、自ら膿を出す覚悟がないのであれば、どこかで破滅を迎えるんじゃないか、とそんな気もしています。暴力機関の人は自棄にならないでね。まだ正義を胸にいだいた人がたくさんいることを期待はしたいですが。

んで、例のiesys問題の時にも思ったんですが、少なくともこれからの犯罪捜査において、証拠の客観的鑑定というのはきっちり問われてくることになると思っています。さしあたっては、警察の所属機関であったり、外部に委託したものであったりしても、バイアスの掛からない(完全には無理としても客観的検証が出来る)形での鑑定結果の提出というのが望ましいし、弁護側にも鑑定の機会を与えるべきなんじゃないかとは思います。これは素人考えなのでいやそれは違うという話もあると思いますが、少なくとも「過剰なバイアスが掛かっていない鑑定である」ということを納得させないと裁くものも裁けないのではないか。それがここ最近の事例から世間が感じていることじゃないかと。何でもかんでも公開しちゃうと大衆のおもちゃになっちゃうという懸念もありますけれども、国家権力というのはそれを民衆が信じるに足る存在でないと、次第に政体自体の疑問へつながっていくと思います。トルコとかウクライナとか対岸の火事みたいに思っているかもしれませんけど、ああ言う問題は日本より後進国だから起きているというわけではないですからね。守るべき者がなくなる、あるいはこのままだと守れなくなる、と思った時、牙を抜かれたように見えた人々が豹変するというのは何時の世でも起きていることではあります。