「私と公のどっちかを優先すべき問題」って愛情問題に直結するんでは?

同い年かよこいつ

まず、弁護する人のかなりの人は、論点がずれている。私は全く、親子の愛情を否定していない。家族が大事なのは当然。
しかしそれは私情。私(わたくし)と公(おおやけ)、どちらかを優先させるべきかという問題だ。

「担任、息子の入学式へ…高校教諭勤務先を欠席」について | 田沼たかしオフィシャルブログ「若き即戦力!チェンジ県政!」Powered by Ameba

国会議員だって同じみたいなこと言ってるけどさ、教師って労働者よ労働者。だから何か問題があるとしたらそりゃ学校の労務管理でしょ。事故にあって瀕死の重傷でもそれは私だよね〜的な。認めた校長が悪いなんて話でもなくて、何故副担任じゃダメなのかって話でしか無いよね。これ子供の入学式じゃなくて瀕死の重傷とか乗ってる電車が事故で閉じ込められたとかだったら許されるわけ?許されるとしたら理由は?自分の選択じゃないから?だとしたら「担任が来なくて保護者が不安」は状況に左右されるわけ?

極端に言えば、みなが、公より私、と言い出すと、国防する人もいつ欠けるかわからない、議員やる人もいつ欠けるかわからない、教師だっていつ不在となるかわからなくなる。それでは公組織は成立しない。

そういう問題じゃないんだからさ。毎年子供の入学式がある教師なんて極めて稀なわけで、ある程度私を優先しても成り立つべきなのが現代の労働というものであってさ、この人教育改革とか言ってるけど現場が労務管理の一つもできない極めて無能な集団ばかりであるってことを主張したいわけ?

こんな「私的」感情を労働者に強いようとする人間が教育改革なんておこがましいんじゃない?