「パソコン遠隔操作事件」の顛末

結局この事件は何だったのか。
finalventさんがすでにこの件ついて雑感という形で示している内容にはそれほど違和感がない。のだけど、自分の言葉で書いてみることをオススメされたのでひとしきり個人的な総括として書いてみようと思う。

おことわり:後出しじゃんけんじゃんけんぽんです。

そもそもこの事件は何だったのか

威力業務妨害は単体で見ると高々3年以内の懲役が最高の犯罪であり、少し前に「小女子殺す」を「いたずらではすまされない卑劣な犯行。他人の痛みを想像しない無神経さは看過できない」と執行猶予付き懲役の判決を出すという事件もあり、「警察暇すぎだろ」くらいの印象を世間(と言っても一部の界隈だけど)が受けているさなかでの誤認逮捕がそもそもこの問題を無駄に大きくしていた。くだらない脅迫・犯罪予告であっても威力業務妨害として取り締まってきた警察にとってはかなりの失点であり、このような誤認逮捕を簡単にしてしまうようでは類似の犯罪を取り締まることが難しくなる(世間の非難がある)だろうという事情もあって、「卑劣な犯罪許すまじ」という姿勢を実績とともに示さなければならないという点では当件はその犯罪として定義される量刑の枠以上に犯人検挙を何としてでも実現しなければならない最優先事件となっていたのであろう。

こういった背景そのものが、サイバー世界における物事と警察が考える治安との乖離を表していて、この事件はその間をつなぐ象徴的な事件となっている。すなわち、警察は威信をかけて「ネット上の悪ふざけ」を取り締まる手段を手放さない、という宣言をあらためて行っていると言える。我々ネット世界の住人がどんなにそこまでの治安は必要ないと考えていたとしても、リアルの論理をネットに持ち込む事こそが国という政体の有り様である、ということを成立させたいのだ。

犠牲者の問題

一般的に、ネットでの(虚偽の)犯罪予告は真の犠牲者は生まれない。今回の事件においては誤認逮捕で人生を狂わされるという犠牲が出ている。この事について警察は「真犯人が悪い」という見解しか持っていないように見える。僕はこの点に関しては「他者を巻き込んだ卑劣な犯罪許すまじ」という思いはある。同時に、警察が今まで如何にカジュアルに犯罪予告を取り締まっていたのか、ということが透けて見える。今回の事件で警察が躍起になっている動機がはっきりとはわからないが、遠隔操作をするとひどい結果になるという見せしめ的な部分がなかったとはいえないのではないだろうか。もっとも、仮にそういう意図があったとしたら容疑の段階でそれを行うことは全く妥当ではないだろう。真犯人が誰であろうと、誤認逮捕に至るプロセス、操作能力の問題を糊塗し、遠隔操作に対して量刑ではなく長期拘留という手段で私刑を行うという警察の姿勢を見てしまうと、今後もより高度な遠隔操作によって同様の誤認逮捕による犠牲者が発生することを予想せざるを得ない。

片山被告と情況証拠

彼のPCから痕跡が検出されたという時点でそれは情況証拠といって良いだろうという印象はあったし、断定はしないもののそういう見解をこぼしていたつもりではある。
個人に対しての印象は保釈の会見時点書いているが、少なくともあの会見は「犯人だったとしても」リスペクトするレベルだと今でも思っている。
一方で、彼が犯人でないという確信を抱いたこともなかった。少なくともC#の技術力云々というのは茶番な話であり、彼の無実を証明する何の根拠にもならない。今回の結末については、「ああ、やっぱりな」という感想以外の何物もない。彼のパーソナリティーについて深く掘り下げるつもりもない。ただ、犯人でありながら過酷な長期拘留に耐え、結果として保釈後に簡単にボロを出してしまうという人間の不思議さ(ある意味では恐ろしさ)は心に刻むべきとは思う。

冤罪事件ではなく

江川紹子さんの記事などもあり、ネットではこの件は「冤罪なのではないか」という空気が漂っていたのは事実だと思う。ただ、僕の周りにおいて散見されたのは「彼が犯人かどうかは別として警察検察のやり方は日本の司法を貶めているのではないか」という危惧であったし、僕がこの件について一番抱いている思いはそこである。仮に彼が犯人でなければ日本の警察は終わりだ、というのはfinalventさんも書いていることではあるが、だからと言って彼が真犯人であったという結末(確定ではないにせよ)に至って警察が威信を取り戻したのか、というとそれはちょっと違うだろ、というのがこの事件の僕としての結論である。
数々の冤罪が掘り起こされている中で思うことは、それが「冤罪であるから」問題なのではないという視点が大事だということ。ネットで顕著な正義感において、冤罪は許すまじ、しかし犯罪者には人権など無い的な風潮が無いとはいえない。本質的な問題は冤罪であろうが真犯人であろうが、社会の正義(白々しい言い方ではあるが、象徴的な文言としてね)を為すためのプロセスが合理的な説明が可能な正当性を失ってはならないということである。もっとも、それが失われて久しい(あるいは最初からなかった)ことが目のあたりになったのが近年の日本の状況であるし、輝かしき過去の犯罪検挙率が虚構であったかもしれないというところへの恐怖も生まれているし、反対側から眺めてみれば、社会はそういった犠牲のもので安定的に発展してきたという黒歴史がかいま見える。
僕は高々20年ではあるがネットの世界の発展とともに生きてきていて、ネットの正義感こそが冤罪を生むという事実がより恐ろしいと思っている。警察の組織原理による冤罪に比べて人の「善意」から生まれる冤罪というのはなんとも救いがたい。

しかし、今回の事件を自ら炎上させ大きな話題にした上で、過酷な拘留でもしらを切り通した人間が結果として正しく犯人であった、という結末をもってして仮に警察が勝利と見なすのであれば、正義の体現者としての警察に我々は一体何を期待すればよいのだろうか。
警察とは正義の執行を委任するべき信頼に足る機関ではないということを自ら喧伝するような結果になってしまいそうなことは実に残念である。