表現の自由は侮辱を許容するか

複雑な政治背景ということを抜きに考えても意味が無い話ではあるんだけれども、それを一旦は度外視して個人の思いを綴ってみるだけのエントリです。

そもそも、今回のフランス新聞社襲撃の件が字義通りのテロであるのかどうかも僕にはよくわからない。人が人を殺すのに怒った以外の理由が必要でない場合はあるし、それは単なる殺人事件でしかないけど、そこに政治的なメッセージが伴う以上テロと呼ばれるのはしかたがない、ということなのかも。

で、これは表現の自由が内包しているのは、たとえ表現の対象が政治的な存在であれども、それを受け止める人は時として個であり、個の怒りを政治が抑止するのはわりかし難しいんじゃないか、というところ。表現の自由には当然ながら表現する側のリスクが0ではない(じゃないと対称性がないだろう)。表現の自由は国家に守られているけれども、依然として人間は個人であるからこそ表現の自由が重要なのであり、だからこそ報復という選択をする人間も発生する。報復が殺人であるということはおかしなことと僕は思うけれども、その理由の大半は殺人が割に合わないから(それは殺人に対する抑止力としては十分なものだと思う)でしかない。もちろん、それは衝動的な行動を理性が抑止するプロセスの一つであって、もとより理性は殺人をすることを理屈では選択しない。

ともあれ、言論への報復は言論で、というルールは原則でしかない、ということが重要なのだと思う。

揶揄であるとか、侮辱であるというのはそれが風刺として成立しているとしても、人の感情を刺激するという点では言葉の(あるいは表現の)暴力(というのが言い過ぎなのであるかもしれないが、他人に影響をおよぼす力では少なくともあるだろう)であり、リスクがあるものだよね。

イスラム法で批判が違法であるとかそういったたぐいの話はその話とは直線的な関係を持っているものではないと思っている。だから、今回の問題が感情によるものなのか論理によるものなのかは重要で、仮に後者だとしたらそれは間違っていると言い続ける必要はあるのだろうなあ。もちろん、前者も間違っているのだけど、それは殺人はなぜいけないの?の世界でしかないと思う。