「境界のないセカイ」の境界

どういう設定のマンガかしらないまま漠然と見てたら「元男だからダメなの?!」みたいなセリフが合ってああそういうマンガなんだなーと思ったんだけど、気がついたらいろいろな問題を巻き起こし、今のところマンガそのものが不幸な結末にたどり着きそうな気配というね。

よー読んでないからずれてたらすまんけど、ここで面白いのは性別の選択が深刻な心と体のギャップに起因したものではないところだよな。
この設定における考えられる最悪の世界観としては、「男が男を好きになったらどっちかが女になればいいじゃない」だったり「性別を選択できるのだから選ぶべきパートナーは逆の性別であるべき」だったりが普遍的な考え方になる、ということなんだろう。

この手の話を聞くといつも思うんだけど、例えば「偏見の目をなくそう」と活動している人たちは、社会なんてものは個人の目から見ると不愉快なことだらけである、という点についてどこまで折り合う予定があるのかなあ。まさか、すべての人々に自分たちを肯定してもらうことを考えていたりしないのかとかね。
社会が受け入れることと個人が受け入れることは到底同じレベルの話では決着が付けられるものではないし、個人の指向、嗜好を社会という枠組みにおいて排除したりすることが差別だ、と最近は思うんだよね。よく個人が差別心を持つことが糾弾されたりすることがあるけれども、あれほど無意味なことはないと思っている。ただ、社会が個人の寄せ集めである部分は否めないので、個人の差別心が常に顕になっていることを許す社会は社会自身が差別しているのと変わらないけどね。そういう点で、個人は社会においてそうあるべきというところから外れた意見を公式に表明することは控えるべきだし、漏れでてしまった場合は謝罪すべきだし、社会としてはそれで終わらせるべきで過剰に糾弾する必要もない。謝罪ができなくて糾弾されているのは仕方ないにしてもね。

そういう視点から見て、フェアではない世界観を提示してみせる表現というのが最終的にどういう意見を社会に表明するか、こそが問題であって、個々の表現を問題にするのはやっぱりおかしいと思う。僕のイメージする幾分マシな社会においては、今回の問題は作者が表現したいテーマを表明した上で、それだけについて妥当であるか否かの判断が行われるべき性質のものなんだと思うんだよな。