国民の納得

本日の朝日新聞朝刊によると、人事不同意問題についてある省庁の幹部が「国民の納得を得られるとは思えない」と漏らしたそうですが。省庁関係者しか適任者がいないから仕方がないことに対する納得など、得られるのでしょうか。全ての不要と思われる天下り団体について納得する説明をした上で、それを言っているのならともかくとして。国民を納得させるのが仕事ではなく、民意の代表たる国会に承認させることが仕事だと思うので、そもそもこういう発言が出てしまうこと自体、自らの無能を恥じない責任転嫁であるように思えてならないのは僕だけでしょうか。

基準

僕なりの、基準がある。その基準に抵触するものは、普段読まない。ホッテントリになったり、別の何かで話題になったときは、読むことがある。Favさんが興味深いコメントをつけているときも、読むことがある。読んで、ネガティブな感情を喚起されたら負け*1。負けたら全力で反論するか、全面的に引き下がる。揉め事の類は大体そのあたり。
大抵の場合、僕が干渉できるだけの思いの強さを持っていないから、見なかったことにする。だって面倒だもの、それを自分の中で噛み砕くと言う行為自体が。
逆に、干渉出来ちゃう人は、良かれと思ってやる行為として、と言うのはわかるのだけれども、でも、そうやって執拗に干渉することが理解できないことがある。それが執拗だ、と言うのもあくまで僕の基準に過ぎないけれども。どうして気に入らないものを読み続けることが出来るかもわからない。そんなに異質な他者がいることが我慢ならないのか。それともその他者が他の人に及ぼす影響を看過し得ないのか。だとしたら、偉いと思うけれども、当事者として参加した瞬間意味を失ういくつかの客観的な言葉があって、それでもそこに触れてしまう、と言うことがままあるように思う。
無論、僕が異質な他者を受け入れている、ということではない。ただ、そこにある、という事実について、動かし難い。だから、存在を認めざるを得ないし、その存在そのものを変えるという必然性は、それほどはない。
その観点から言って、読むな見るなと言うのは正しい要求であり、過去何人もが主張してきたそれと言うのは、僕は否定してこなかったし、これからも来ないだろう。見るなと書いてあろうがなかろうが、僕が見るべきだと思ったものは見るし、見るべきでないと思ったものは見なかったことにする。そういう自前のフィルターは多少にかかわらずみんな持っているものだとは思うけれど。
純粋な論理での闘争においては、なんの遠慮も要らないと思うし、純粋な感情に対する反応においては、可能な限り、背景を慮らなくてはならないと思う。それが野放しを肯定するかと言うとそんなことはなくて、ただ、周りの反応がそれをエスカレートさせるのであれば、その反応と言うのは熟慮の上でなされている必要はあるだろう。たとえ、正論であっても。
狭量な自分についてのいい訳かもしれない。けれども。

*1:勝ちを志向した上での負けではなく、自分との戦いでの敗北である