どれほどのものかは

かの者は悪行の報いを受け、人生における代償を支払うことになった。その一方で強制的に取り立てた者たちがいる。無自覚に、権利があるかのように。行き過ぎた、偏向した報道をもってマスゴミという。殊更に必要以上の情報を暴き立てる行為が、その普段は蔑むメディアたちの行為とどれほどの違いがあるのか。
一方で監視社会に反対し、一方で私的監視社会を作り上げる。秩序のための無秩序なのか。いや、それは単なる無秩序に過ぎないだろう。ルールは、運用されることを前提に作られる。運用とは、すなわち柔軟である。人が人として社会を形作る以上、個々の考え方の相違点が社会全体に影響するラインにおいてルールが作られる。そのルールですら、当事者同士の合意によってなかったことに出来なくはないものである。社会はルールの厳密な適用を求めているわけではなくて、柔軟な運用を求めている。
然るに。
ルールの厳密な適用は第三者によって行われるべきではない。判断するのはあくまで当事者であり、客観的に情報を得ることが出来るだけの立場で実行が許される範囲はその知りえた情報を超えない。それを超える行為を行うとき、既に当事者である。つまり、必要以上に追い詰めて、人一人を破滅させた当事者足りうる。
無論、かの者がした行為はそれに当たるのかも知れない。本来それを裁くものは誰であったのか。しかし、裁いてしまった。客観的な指標もなく。
そのことに自覚的であるならば、よい。人を呪わば穴二つ。呪っていないのであれば問題あるまい。あるいは呪っている自覚があるのであれば、穴に入る覚悟は出来ているのであろう。無自覚であるならば、自覚せよ。ネットで他愛の無い軽口を叩いただけで逮捕される日が来るとしたら、それは無自覚な精神がなせる業だろう。