不思議は不安だからわかりたい

あーあるあるそうだよね、って言いたい心理が血液型占いを信じてしまう原因なのでしょうけれども、世の中の類型的な分析の、分類があまりに大雑把なものは大体そうでしょう。文系理系とか。
僕は高校で、お前なんで理系じゃないのと罵ら…驚かれたものですけれども、僕の中では学問としての文系理系と言うボーダーはなくて、ただ、どっちの教科がより好きか、くらいにしか思っていませんでしたが、いざ大学行ってみると文系なのに統計があることで四苦八苦している人が多かったので、好き嫌いじゃなくて得意科目の話なのかと思ったりしましたが、結局「理屈っぽいから理系」と言う普遍的なレッテルを貼ることで僕の志向を理解しようとしていた、と言うことなのかなと今になって思います。
文系科目に比べて理系科目はちゃんと勉強したり実験に出たりしないと単位が取れないよという点からある程度勉強好きな人が集まるし、文系は相対的に楽だからっていう理由で授業とっていたりする率が上がりますし、そういう人たちが他に何に時間を使っているかっていうことが何かって話だけで。
で、まあ大体こうやって類型化して語ると当てはまる率が高いわけですから、わかったようになって安心します。それは自分の立ち位置を確認する作業でもあり。だから、一般化するな、とか一人一人違うって言う話が出てくると、「そんな話をしているんじゃないんだけどなあ。でもそうだよなあ」って思ってしまったりします。じゃあどうすればいいのかと。大した人間関係もないのに、一人一人の違いをばっちり把握しなければならないのかと。そんなことはないですよね。肩がこる。
類型化されることを嫌がる人ってのは、類型の中に埋没したくないのかな。人間、括ってしまおうとすればどうやっても括れるもので、だから、否定する人に限って「だからあいつらは」みたいに類型化しているような予感もあるのですがどうでしょう。
特徴の集積がある指向を示したときに、それを一般化として捉えるのはそれほど誤ってはいないと思いますし、その一般性の中に一人一人の個性があると思うのですね。個々を見出すまで近くないときは、一般化したラベルのなかで「わかる」と思ってもらえば言いし、近づいたらその特殊性の部分を見てもらえばよいし、とにかく、正体不明と言うのは不安なものですから、ミステリアスな自分をわざわざ演出したいと思っていない限り、その適当な一般化に対してもはいはいそーですねとうなずいていれば良いのではないかと思った次第です。