トリアージの善悪

また思ったことをつらつらと書きます。
トリアージという概念が、一般的に善なる合理主義と見做されるか、ということについて合意がされているとは思えない。それ以前に、トリアージとはなんなのか、ということについても意見が分かれるところなんじゃないかという気がしている。これは、トリアージを一般的な概念として扱うことがあまり適していない、ということから来るものなのだろう。
トリアージの適用現場における、「かわいそうだけど」仕方がないについて言うと、その「かわいそう」はどこから来るのか。これも結構な問題であり、倫理のキーであるように思う。
そもそも、(本来の用法である)災害現場での医療者の方針としてのトリアージは、「極限状態」とか「リソース不足」を単純な理由にしているわけではないんじゃないかと思う。というか、対象を指し示さない「極限状態」がその理由になりうるのであれば、その考えを推し進めていけば、「平成大不況という極限状態」によって合理主義が適用され、切り捨てられるものが出てくることを許容するようなものだ、と考えることが出来てしまう。
そうじゃなくて、トリアージとは、予め適用すべき要件を事細かに、現代社会としての倫理の面も十分に組み入れてパッケージしたものである、と考えることが出来る。その場合、パッケージ化されたことによって、現場の人間もパーツとして、個々の倫理から開放された状態で従事できる。この個々の倫理からの開放が正しいかどうかは措く。
だから、一般的な概念としてトリアージを持ち出すことはかなり無理がある、というのがここまでの理解。トリアージそのものは決して善なるものではないと思う。善なるものと解釈してしまったとき、倫理的葛藤の元で生み出された適用基準、という苦しみがどこかに飛んでいってしまうのではないか。