もう人間?

未熟な未発達な青少年というくくりかたの欺瞞は遙か昔にディックが「まだ人間じゃない」で極大の皮肉を込めて描いたところから進んでいない。ディックは大人の教科書なのかも。未発達な大人は読め。
18歳の犯行と有害情報へのアクセス規制とは直接は関係ないけどイムリーな話題として。
何をもって大人と見なすかが曖昧であり、一定の、例えば18歳という線の引きかたを社会が許しているのは「大きい子供」が社会的に明示的には許容されないからだ。18歳を越えた時点で一律断罪されることを拒否するためには別の軸での「大人の定義」をしなければならないことは自明である。しかし、時間以外の軸で人間をとらえるためには社会の仕組みを変えざるを得ない。かろうじて、学生という猶予身分はあり、法的には認められずとも行政的には仕組みがある。ただしこれは大人の指標とは関係なく、社会の学術レベルを上げるのが目的だが。
大人試験を科すとしたら、何度も落第するものを養い続けるコストを社会が許容しなくなったところで「中絶」が行われるかもしれない。経済に余裕がある現在、一部のコストは既に負担されてはいる。人権が尊重されるのは尊重しても人類が滅亡しないからに過ぎない(というのは極論で、人権を守れないで生きるくらいなら粛々と滅亡の道を進という精神的成熟の方向性はあるかも知れない)。
では逆に「小さい大人」をどう遇するべきか。彼らのために有害情報へのアクセスパスを残すというのは例外的な状況を普遍化しているように思える。ただ、実態として「大きい子供」が増えている現状では年齢という指標に説得力がないのも確かな話だ。
いつから人間で、何を持って大人とするかを犯罪と結びつけて判断するのは、危険な発想だと思う。未発達であることが免罪符になるのであれば、あらかじめ発達済みのラベルを貼ることが社会に課せられた義務となるだろう。未発達な人間に対する処遇がどうなるかは推して知るべしである。

死刑へのハードルという言葉

実際問題として、死刑には判例というハードルは存在していて、量刑は慣習的に決められている部分があるのだから、あながちおかしい質問でもないような気がする。

−−今回の少年は(犯行時)18歳。ハードルが外れ、今後、少年の死刑判決が続くと思いますか。
本村 そもそも、死刑に対するハードルと考えることがおかしい。日本の法律は1人でも人を殺めたら死刑を科すことができる。それは法律じゃない、勝手に作った司法の慣例です。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000014-maiall-soci

この質問をしたのは朝日新聞の女性記者(あえて女性記者ということ自体どうかと思うんだが)で、一部では非難囂々なんだけど、そういうわけで、それほど的外れでもないと思う。慣例というハードルというものが厳然とし存在し、そして今回の判決で、改めて法律に照らして再評価したことが慣例を乗り越えた判決となったわけだ。今回の問題の所在を考えるのにあたって、という視点では妥当な質問であったと思う。
言葉の問題で言うと、本村氏のこちらの発言の方が気になる。

本村 胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000014-maiall-soci

胸を張るって一体なんだろう。堂々と罪を償うことが出来るのであれば、それが死刑である必然性はあまりよくわからない。
この言葉を見て、改めて死刑の必要性について考える必要があると思わされた。被害者やその遺族が社会に向き合うために死刑が必要なのだとしたら、それは社会が未成熟な証明であるように思える。社会そのものが死刑を必要としていない限り、その合理的な正当性というのがどこにあるかわからなくなってしまう。死刑が必要な理由は犯罪者の側になければならないと思う。