生産性がないことにより生存を許されないという考え方について

「ダウン症含め『生産性のない人』を増やして、国は何がしたいんだと思いますか?」 - Togetter
この手の疑問は本当は誰しもが一度はぶち当たるものだと思う。社会とは何かを考えるときに、この手の悩みを持ったことがない人は、それを無視しているか、暗黙的に「おかしい」と感じていて、先日起きた親族扶養問題のようなときにその疑問を噴出させる。
つまり、実際にこの問題をまじめに考えたことがない人はかなり多く、ぼやっと考えただけでは「不公平では?」という疑問が払拭できないということ。
だから、こないだの親族扶養問題はすごい怖かった。こういうことを普段考えていない人に対し、現代社会の社会福祉がなぜそういう仕組であるのかをきっちりと伝える機会であったはずが、マスコミがこの素朴で単純で間違った疑問に乗っかって、それが正義かのように喧伝することは恐ろしい。

社会福祉というのは社会の状況によって変わる必要はあるけれども、その根本的な考え方そのものは後退してはならないと思う。

とはいえ、20XX年、世界が核の炎に包まれちゃったりしたらそこまで積み上げてきた倫理というものはリセットされるんだろうなあ、と思わなくもない。

冒頭で上げたような人に対して、諭すのではなく責めなければならない時点で倫理観の対立が起こっているようにも思えるし、そうだとしたら、どちらの倫理観が勝つかという話になってしまう。それはまずいはずなんだけど、マスコミも政治家も官僚も、政治と財政に焦点を当てすぎていて(というか、倫理なんて勝ったもんに乗ればいいやと思っていて)、日本という国がどういう思想であるべきかについては議論すらしていないようにも見える。事あるたびに倫理面で議論されるのは死刑制度位のもので、生活保護問題なんて財源や就業支援の話しかしてない気がする。というよりも、一方的に「働かざるもの食うべからず」について発信されているように見える。

このことは特に日本だけの問題ではない。アッパークラスが必死に建前を守ろうとしている(しかしたまに出る差別的な本音で責められるが)反面で、倫理より生活と言わざるをえない人々を扇動しているマスコミや政党、という構図はどこかでなんども見た感じではある。ただ、日本は本来アッパークラスである政治家や企業家が倫理の欠片もないことを言い放ってもそれを糾弾する力がなくなりつつある気がするのが恐ろしいところだ。

インタフェースを持たないことがインタフェースになりうるのか

面白い記事だった。

その上で、彼は次の3つの原則を提案している。この3つの原則を実践することで、スマートで、もっと使いやすい、我々の世界をもっとより良くするシステムをデザインできる。

原則1: インターフェイスを排除し、自然な処理を採用する(Eliminate interfaces to embrace natural processes)
(略)
原則2: コンピューターに人を合わせるのではなく、コンピューターを利用する(Leverage computers instead of catering to them)
(略)
原則3: 人に適応するシステムを作る(Create a system that adapts for people)

最良のインターフェイスとはインターフェイスを持たないことだ - Nothing ventured, nothing gained.

言わんとしていることは概ね理解できる。なんだけど、どうしても「UIがない」ということはインタフェースの本来の目的を見失っているように思う。ここで語られているインタフェースの概念は狭いけれども、それでもなお。
僕個人として思うインタフェースの原則は

  • コントローラブルであること
  • 干渉的操作が可能であること

だと思っている。

コントローラブルであること

二次元に囚われているっていっても当面二次元インタフェースのお世話になることは多い。今でこそタッチスクリーンは一般化したり、WiiKinectのお陰で3次元UIの開発も活発だ。ただ、マウスとキーボードが未だに最良のインタフェースの座をキープしているのは、そのコントロール性にあるだろう。人間の思考、動作は不正確極まりなく(そうでなければゴルフなんて単なる飛距離比べのゲームに成り下がる)意図通りの動作をコンピュータに伝えることは困難である。仮に、脳波を読み取ってコントロールできるとして、どれだけの雑念を排除しなければコントロールできるようになるのだろうか。一方、マウスは適当な手の動き(それもきちんとスクリーンと現実の関連付けがなされている)によって微細なコントロールが可能だ。これは単純だからこそなし得ているコントロール性能であるね。もちろん、その分できることは動かしただけ動かせることでしかない。
ここで重要なのは、余計なことをしない仕組みになっていることだ。脳波コントロールにせよ、視線コントロールにせよ、ジェスチャーにせよ、操作を媒介するもの(すなわちインタフェースだ)が一瞬で切り離し可能でない限り、余計な動作によって余計な意思が伝わってしまう。よそ見をすると動きが変わるようではお話にならない。マウスは手を止める、あるいは離すことで何も伝えなくなる。動かしたいという意思に忠実であるとも言える。
もっとも、それも用途によるとしか言えない部分はあるけどね。

干渉的操作が可能であること

学習して自動で温度調整をしてくれるサーモスタットは本当にUIが必要ないのか。(実際にはあれはUIを持っているけれども)
いくら学習しても、そこにユーザーの意思が反映されるとは言い切れない。ユーザーは意識的に普段と違う行動を取ることがあり、それに対して対応可能になるためには必ず干渉的な操作可能なUIが必要である。つまり、自分で温度を上げ下げできなければならない。実際には学習させるためにもUIは必要だろう。

アダプトすべきはどちらか

とはいえ、インタフェースというのは複雑で、わかりにくいものになってしまうとデメリットが多い。シンプルでわかりやすいというのを原則としたい。しかし、アコーディオン(あるいはバンドネオン)のボタンとピアノの鍵盤、どちらが優れているのか。統一したほうがいいのか。なぜアコーディオンには鍵盤もボタンもあるのか。
人に適応したUIを作ることも大事だけれども、目的に合わせて作られたUIに人が適応するのも大事なのだと思う。テニスとバドミントンと卓球のラケットの機能を併せ持ったバットは果たして機能するのか。目的が見失われてしまうのであればそれはUIではない。今は絶賛の的であるiPodの、そしてiPhoneのUIだって実のところわかりにくいことこの上ないんだぜ?

結論

無駄な手数が省ければ何でもいい。それが学習の手数なのか操作の手数なのかはたまた他の何かなのかは目的次第。