インタフェースを持たないことがインタフェースになりうるのか

面白い記事だった。

その上で、彼は次の3つの原則を提案している。この3つの原則を実践することで、スマートで、もっと使いやすい、我々の世界をもっとより良くするシステムをデザインできる。

原則1: インターフェイスを排除し、自然な処理を採用する(Eliminate interfaces to embrace natural processes)
(略)
原則2: コンピューターに人を合わせるのではなく、コンピューターを利用する(Leverage computers instead of catering to them)
(略)
原則3: 人に適応するシステムを作る(Create a system that adapts for people)

最良のインターフェイスとはインターフェイスを持たないことだ - Nothing ventured, nothing gained.

言わんとしていることは概ね理解できる。なんだけど、どうしても「UIがない」ということはインタフェースの本来の目的を見失っているように思う。ここで語られているインタフェースの概念は狭いけれども、それでもなお。
僕個人として思うインタフェースの原則は

  • コントローラブルであること
  • 干渉的操作が可能であること

だと思っている。

コントローラブルであること

二次元に囚われているっていっても当面二次元インタフェースのお世話になることは多い。今でこそタッチスクリーンは一般化したり、WiiKinectのお陰で3次元UIの開発も活発だ。ただ、マウスとキーボードが未だに最良のインタフェースの座をキープしているのは、そのコントロール性にあるだろう。人間の思考、動作は不正確極まりなく(そうでなければゴルフなんて単なる飛距離比べのゲームに成り下がる)意図通りの動作をコンピュータに伝えることは困難である。仮に、脳波を読み取ってコントロールできるとして、どれだけの雑念を排除しなければコントロールできるようになるのだろうか。一方、マウスは適当な手の動き(それもきちんとスクリーンと現実の関連付けがなされている)によって微細なコントロールが可能だ。これは単純だからこそなし得ているコントロール性能であるね。もちろん、その分できることは動かしただけ動かせることでしかない。
ここで重要なのは、余計なことをしない仕組みになっていることだ。脳波コントロールにせよ、視線コントロールにせよ、ジェスチャーにせよ、操作を媒介するもの(すなわちインタフェースだ)が一瞬で切り離し可能でない限り、余計な動作によって余計な意思が伝わってしまう。よそ見をすると動きが変わるようではお話にならない。マウスは手を止める、あるいは離すことで何も伝えなくなる。動かしたいという意思に忠実であるとも言える。
もっとも、それも用途によるとしか言えない部分はあるけどね。

干渉的操作が可能であること

学習して自動で温度調整をしてくれるサーモスタットは本当にUIが必要ないのか。(実際にはあれはUIを持っているけれども)
いくら学習しても、そこにユーザーの意思が反映されるとは言い切れない。ユーザーは意識的に普段と違う行動を取ることがあり、それに対して対応可能になるためには必ず干渉的な操作可能なUIが必要である。つまり、自分で温度を上げ下げできなければならない。実際には学習させるためにもUIは必要だろう。

アダプトすべきはどちらか

とはいえ、インタフェースというのは複雑で、わかりにくいものになってしまうとデメリットが多い。シンプルでわかりやすいというのを原則としたい。しかし、アコーディオン(あるいはバンドネオン)のボタンとピアノの鍵盤、どちらが優れているのか。統一したほうがいいのか。なぜアコーディオンには鍵盤もボタンもあるのか。
人に適応したUIを作ることも大事だけれども、目的に合わせて作られたUIに人が適応するのも大事なのだと思う。テニスとバドミントンと卓球のラケットの機能を併せ持ったバットは果たして機能するのか。目的が見失われてしまうのであればそれはUIではない。今は絶賛の的であるiPodの、そしてiPhoneのUIだって実のところわかりにくいことこの上ないんだぜ?

結論

無駄な手数が省ければ何でもいい。それが学習の手数なのか操作の手数なのかはたまた他の何かなのかは目的次第。