「転載をすると損」と結論付けるのはGoogleに飼い慣らされすぎてないかという問題

界隈で話題の件。
http://www.assioma.jp/?p=4497
Q「ガジェット通信に寄稿したらPV増えますか?」A「いいえ減ります」 - 情報の海の漂流者
ガジェット通信に記事を転載されたが……! - Hagex-day info
全文転載におけるネットメディアとブロガーの関係:Geekなぺーじ
全文転載をすることによって、Googleに重複ページペナルティを食らって検索結果に表示されない、ということなんだけど、これははてブなんかでも同じで、BLOGOSの方がたくさんブクマされていてオリジナルはさっぱり、ということがよくある。もっとも、はてブとかTwitterで話題にならないとBLOGOSからお呼びがかからない向きにとっては大して変わらないかもしれない。

で、この件なんだけど、もうちょっと積極的な解決策はないものかと思ったりする。今は、自サイトのPVを取るか知名度を取るかという話になってしまっているけど、検索したときはオリジナルサイトが表示されれば良い、ということについてGoogleが対策を打つべきなのではないか。Google様のやることには逆らえませんというか言っても無駄みたいなところはあるけど、そもそもGoogleが覇権を握ったのはGoogleが一番検索精度が高かったからであって、Google並のINDEXをいきなり作るのは難しいとはいえ、インフラコストが何桁のオーダーで変わってきている昨今、そろそろ競合が出てきてもおかしくないのではないかと思ったりする。

オリジナルを判定するポイントは、少なくとも正規の転載であればルール化することは出来るだろう(オリジナルを意味するタグ付けするとか)。コピペ便乗サイトについて除外するのもそれほど難しくないのではないかと思う。

ネタイズとか考えたらGoogle様に逆らうことは得策ではないのかもしれないけれども、検索エンジンの都合に合わせて露出を変えていく、というのはなんだか紐付きというか行動制限をかけられているかのようで、ウェブらしくない。

幸せな生き方とは何か2013

紅白で「ヨイトマケの歌」があらためて投げかけたのは、「幸せとは何か。生き方とは何か。」ということだったんだと思っているけど、それをお仕着せの言葉で評価できる社会倫理というのはもはやない。個人の幸せとは個人の価値観に完全に依存しているため、そこに正しさを規定してはならないのが現代の正しさなのである。
これは結構困ったことで、例えばかつて「国民所得倍増計画」という国家戦略をぶちあげてそれに向かって邁進した日本社会のような空気を作ることは難しいということだ。「XXのためなら我慢して…」ということを「そんな価値観に俺は与さない!俺は自由だ!」ということが肯定されるということだ。
昔だってそういう人はいたけど、少数派であったし、世間の目は冷たかったし、一方で社会に対する反抗というシンボルを持ち得た。今はその価値観を反抗とみなすことこそが不道徳なので、冷たい目で見られることはあってもヒーローにはなれない。ここにも不幸がある。反抗にもなり得ないのであれば、ただ社会において不利なだけであり、かつ、それを自分が選びとった価値観、人生観であるから勝手にしてくれ、ということで突き放される。
ここに両者の不幸がある。国民一丸となって云々は現代倫理の世界では肯定されえず、自由に生きる云々は主に経済的事情から行き詰まりをむかえている。
元々、倫理というのは社会の経済的発達、権利に対する考え方の進歩などによって変化してきた。よく、一度金持ちになったら金使いは変えられない、みたいなことを言われるが、考え方もそうであって、経済的な事情が許さなくなったから障害者の支援を止めましょう、ということには向かい辛い。もっとも、不況を理由に倫理を後退させようとしている向きが出始めているけれども、それはかつてドイツが辿った道であり、発展途上国独裁政権が辿った道であることを心に留めておきたい。

さて、ここで年収150万で暮らせる、と主張する人がいる(その実、年収150万どころか1記事10万以上で売りつける事象カリスマブロガーをやっているわけだが)。150万で暮らすことでも幸せを感じられる人はいるのだろうけれども、それは僕の主観から見ると極めて少数派としか思えない。これは極端な例だけど、どうも最近の「低収入でも自由」礼賛に近い話の胡散臭さが気になって仕方がない。
これは個人的な価値観だけど、働き方よりも妥当な収入のほうが重要だと思っている。まあ裏を返せば働き方がアレだから大した収入が得られないことが妥当なのかもしれないけれども…いや、そうじゃないだろ。どんな働き方であっても働いた成果に対して妥当な結果が得られることが勤め人の仕事であって、ワークスタイルによる低収入のススメはほとんど起業のススメなんである。話がそれたような気がするので戻ると、ある程度の収入が得られることではじめて人は自由になる選択肢を持ち得る、と思っている。生きることに汲々とするレベルの収入であれば、そうやって生き抜くことそのものに喜びを感じないと幸せとはいえないし、客観的に見てそれが幸せか、というと疑問がある。子供がいたとしたら少なくとも、現代の社会における標準的な生活を送らせることが社会としての義務であるわけだし、ともすればそれは一種の虐待にもつながるわけで。独り身だったらあるいは、とは思うけれども。
そして幾ばくかの束縛を我慢することで、得られるものは多いと思っている。

とはいっても、つい「自由になりたい」と思ってしまうような会社が多いであろうことも聞こえてくる話からするとわかる。問題は、そこから逃れようとするときに「低収入でも生きていけるよ」が代替の選択肢になってしまうことだと思う。高収入を諦める人がいればその分高収入を得られる人がいるか、というとそんなことはなく、全体的に停滞する。もうちょっとみんなで押し上げて行かないとダメなんだと思う。でも、そういう熱気は今の日本にはない。

低収入でも自由な生き方礼賛って、だから、ヨイトマケの歌を聴いて日本的な美徳とか言っちゃうのとどう違うのかよくわかんなくなるんだよね。その自由ってのは相対的に縛りが多い自由なんですよと。一見精神が自由になっているように見えなくもないけど、同レベルの自由を持っている、普通の勤め人というのはザラに居るわけで。

ブラックから逃亡するのはおかしなことではない。でもそれをもってワークスタイルの問題とする必要はないよね。