「厳しい」と「理不尽」の違いから考える成長の糧

何事においても、成長するのに必要なのは経験だったりします。ただ、その経験の積み方には個人差がかなりありますし、場合によっては対外的な力を必要とすることはあるでしょう。
スポーツ選手が厳しいトレーニングを積むときに重要なのはどのような自分になるかをイメージし、厳しさに耐えぬいた結果得られるものを明確な目標として設定することでモチベーションを保つことだったりしますよね。自分に対して厳しくなれる人は良いですけれども、どうしても甘えてしまう人は外部からの叱咤激励によって一人では気質的に達成不可能なことを達成できたりします。
仕事についてもそれは同じで、要領が良ければよいほどついサボってしまって結果として本当は身につけられることを身につけられないと本人にとってももったいないことになりますし、社会人としての儀礼プロトコル的な部分なんてのはある程度は習慣の矯正に近いので外部の力がより有効な部分ではあります。

さて、

厳しくされようがされなかろうが、半年から一年ぐらいやっていれば、業務にも普通はだいぶ慣れてくる。慣れれば当然業務の処理速度も早くなるし、ミスも少なくなる。この場合、(Aの考えている)成長というのは、厳しい指導の賜物というよりかは単なる慣れに過ぎない可能性が高い。この因果関係を取り違えて、後輩に対しても自分がされたのと同じような、厳しく、そして多分に理不尽なことを含んでいる指導を繰り返そうとするのは、あまり感心できることではない。

「厳しくしてもらったおかげで成長できた」は本当か - 脱社畜ブログ

確かにそういう部分はあると思うんですよね。一方で、ほっといたら何時まで経ってもミスばかりする、という人もいるんですよね。理由を聞くといつも「このくらいでいいだろうと思ってました」ばかりだったり。そういう時は、優しく諭すだけではなく叱責するときもときには必要です。仕事なんだからミスが損害をよんだりするわけで、個人のさじ加減ではなく、現場のさじ加減を覚えなければならないし、それに必要以上に時間がかかったら極端な場合退職を勧告せざるを得なくなることもあります。でも、「厳しく」することでそこを乗り越えられることだってあったりするんです。
厳しさには時間の短縮という側面もあるし、監視してくれる人がいなくなった時に自分自身に対して厳しくできるかという能力のトレーニングという部分もあります。

厳しいより優しいのほうが良い、というのは実に一面的な話で、実際にはその人を見てやり方を決める話でもあります。こういうのって、実は一人ひとりの気質なんてどうでもいいと言っているのと一緒で、一見親切なようでその実、心がこもってないんじゃないかとも思ってしまいます。

ところで、「厳しい」と「理不尽」というのはともすれば一緒にされがちですが、全く違います。厳しいってのは先に上げた話でもそうだけれども、単に態度を示しているに過ぎません。ただ、態度というのは人間の行動に大きな影響を与える要素ですから、結局のところ、他人をコントロールする技術の一つでもあります。
「理不尽」というのはまた別です。理不尽にはロジックがありません。あるいは客観的に筋が通らず、理解不能なロジックになっています。理不尽は心を蝕みます。理不尽に慣れてしまうと、ロジカルに考えることを放棄することにもなるし、現場をより良く変えようという意欲もわかなくなります。
理不尽を受け入れるというのはそういうことです。なので、厳しくあっても理不尽であってはいけませんよね。逆にいうと、厳しくてもそれに見合うロジックがあれば、それは必要なことだと判断することもできます。
ただ、難しいのはそのロジックが「成長して初めて理解できる」たぐいのものだったりすることが多いことです。その場合、当初はそれを理不尽と感じることもあります。理由がわかってみたら納得できたりします。
だから「ただ厳しい」というのは結果として(主観的に受け止める印象としての)理不尽によって人を潰す可能性があるんですよね。厳しさによって成長できたと感じる人は、実はその厳しさの中にきちんとロジックがあったということがほとんどだと思うんですが、悲しいことに「成長した」側の人がなぜ成長できたかを理解できず、ただただその厳しさだけを真似ることがあります。つまり、「なんとなく厳しさを受け止めてたらできるようになっちゃった」という人が一番後輩にとってガンになる可能性が高いのですよね。
だから、厳しさってのはちゃんとロジックが内包されていたとしても、それをきちんと説明しないことによって副作用を引き起こすことがあるということです。古き習慣として「あいつは見込があるから厳しくしよう」というのはだから効果を発揮することも多いですが、問題を引き起こすことも多いのですよね。
厳しくするなら厳しくするだけの理由をきちんと明らかにする、というのがこれからは大事なのだと思います。その理由に納得がいかなければ理不尽を感じる前に配置転換なり転職なりを考えることもできますしね。する側も、単なる甘え人格を回避することができるかもしれませんしね。

ある意図の可能性が微レ存すればそれを100%とみなす小倉先生論法

5〜6年前のエントリを見返していたら全然変わったないな〜と思ったのである意味一貫しているんだろうけれども。

僕の発言の重要なところは「唯一の帰結点言わんばかりに設定し」なんだけれども、なんでそれが「ヤクザの遠回しの脅迫」を認容することになるのか。昔もそうですけどそういう意図で発言されたことが微レ存な仮説をさもそれしか受け取りようがないものと見なしてそれについて批判をしたり、それをおまえらは認めるのか、という言い方をするっていうね。ヤクザの遠回しの脅迫が脅迫と見做されるのはかなり状況依存で自身でも書いてあるけど「何かを要求」という部分が重要なわけじゃないですか。で、客観的に見てそれを行わないとひどい目にあうことが明らかであるから脅迫なんでしょ。
小倉秀夫氏『普通に読み取れることを普通に読み取ることが藁人形叩きだってことですね。ずいぶんと「藁人形叩き」の意味が広がったものだ』 - Togetterでのやり取りにしたってニュアンス的には「お願い」や単なる報告とも受け止められるレベルの言葉を「求める」という風にわざわざ強く置き換えている。
これを敷衍すると、「(見た目キモオタが居合わせた人に)月が綺麗ですね」→「おまわりさんストーカーです」、「(ヤクザが赤信号渡りかけた子供を防いで)坊主、気をつけなよ」→「おまわりさん脅迫です」になるんだろうか。普通はならないけど。
小倉先生がよく藁人形論法と言われるのは「それは確かに言ったがそういう意図ではない」という本人の言葉すら無視して、憶測した意図を確定的なものと見なして批判するからで、大体「そんなことを言っている(やっている)人は誰もいない」という批判に対して「ではXXを認めるということですね」というこれまた誰もそんな意図を持っていないことが文脈的にも明らかな間違った決めつけを行うことが多いからですね。
明らかに言っていないことを元に他人を批判するのは中傷なんではないかと思うんですが。少なくとも僕は今「ヤクザを肯定する人格」見做されていて、そのことを広く喧伝されたのではないでしょうか。それが否定できるなら小倉先生の「ということですね」は全部ジョークか何かだったってことですな。