ある意図の可能性が微レ存すればそれを100%とみなす小倉先生論法

5〜6年前のエントリを見返していたら全然変わったないな〜と思ったのである意味一貫しているんだろうけれども。

僕の発言の重要なところは「唯一の帰結点言わんばかりに設定し」なんだけれども、なんでそれが「ヤクザの遠回しの脅迫」を認容することになるのか。昔もそうですけどそういう意図で発言されたことが微レ存な仮説をさもそれしか受け取りようがないものと見なしてそれについて批判をしたり、それをおまえらは認めるのか、という言い方をするっていうね。ヤクザの遠回しの脅迫が脅迫と見做されるのはかなり状況依存で自身でも書いてあるけど「何かを要求」という部分が重要なわけじゃないですか。で、客観的に見てそれを行わないとひどい目にあうことが明らかであるから脅迫なんでしょ。
小倉秀夫氏『普通に読み取れることを普通に読み取ることが藁人形叩きだってことですね。ずいぶんと「藁人形叩き」の意味が広がったものだ』 - Togetterでのやり取りにしたってニュアンス的には「お願い」や単なる報告とも受け止められるレベルの言葉を「求める」という風にわざわざ強く置き換えている。
これを敷衍すると、「(見た目キモオタが居合わせた人に)月が綺麗ですね」→「おまわりさんストーカーです」、「(ヤクザが赤信号渡りかけた子供を防いで)坊主、気をつけなよ」→「おまわりさん脅迫です」になるんだろうか。普通はならないけど。
小倉先生がよく藁人形論法と言われるのは「それは確かに言ったがそういう意図ではない」という本人の言葉すら無視して、憶測した意図を確定的なものと見なして批判するからで、大体「そんなことを言っている(やっている)人は誰もいない」という批判に対して「ではXXを認めるということですね」というこれまた誰もそんな意図を持っていないことが文脈的にも明らかな間違った決めつけを行うことが多いからですね。
明らかに言っていないことを元に他人を批判するのは中傷なんではないかと思うんですが。少なくとも僕は今「ヤクザを肯定する人格」見做されていて、そのことを広く喧伝されたのではないでしょうか。それが否定できるなら小倉先生の「ということですね」は全部ジョークか何かだったってことですな。