「「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想」は幻想なのか

何重構造なんだ。えーと、「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想:DESIGN IT! w/LOVEこの記事についての見解が述べられていますね。
もともとのページの主張では

ある人が辞めたから注文を受け付けられないとか、ある人が風邪で休暇を取ったからといって製品の品質が落ちたなんてことがあっては困るのである。

とあります。それに対して

「誰がやっても仕事の結果や内容が同じ品質になる」必要があるのは、アウトプット要求とせいぜいサービス要求でも万人が必要とする、あるいは、あっても困らない共通部分であって、経験価値の時代だとか、これだけパーソナライズがもてはやされる時代においては、むしろ、それより上の層では同じ品質であることなど、顧客は望んでいなくて、自分に合ったものを望んでいるといえるのではないでしょうか?
つまり、それは必要条件であって、十分条件ではまったくない。そうなると「誰がやっても仕事の結果や内容が同じ品質になる」なんてことを目標にしているのは、単に企業のマーケティング的怠慢であって、それは「誰がやっても」同じだけ品質が悪いことを目標にしているのと変わらないのではないかと思います。

という主張。さて、話は若干ずれるかもしれませんが、自分の現場の状況に置き換えて考えてみます。もう始まってから2年以上が経つプロジェクトになるので当然人の出入りがそれなりにあり、オリジナルのメンバーはもうほとんど残っていない状況。その中で、じゃあどうやって品質を保っていくか。当然ながら、ある人がいないからできませんと言うのではお話になりません。ただし、実際に誰がやっても同じようにできるのは、手順化されたルーチンワークのみであり、さらにいうと、それすら同じ速さ、正確性でできるかというと、やはり個人差が相当出る。これはアウトプットは同じだがサービス(ここでは速度と精度)のレベルは異なると言えます。プロジェクトの作業で160人を1時間待たせると160人/時間すなわち20人/日つまり1人/月無駄にかかってしまうわけで。単純な作業すらこれであるからして、況や設計・コーディング・テスト・バグ解析をや、ということでありますね。
プロジェクトとしては個人が握ってしまっている情報やノウハウはできるだけたたき出して引き継ごうとします。もちろん、それは正しい。じゃあ、資料が完璧なら誰でもできるかと言うと、決してそんなことはありません。情報やノウハウの裏には暗黙の前提があって、これは暗黙知とかそういうレベルじゃなく、素質と経験と探究心が積み重なった個人にしか属さないものであるから、資料として引き継ぐことは不可能なものです。つまり、引き継ぐ側にもそういう素質があればともかく、ないといざ実践するにあたって余分な時間が掛かったり、結局できなかったりするというのは往々にしてあるものです。
そうは言っても標準化できるものはそれなりにあって、そこをしっかり揃えていくことでアウトプットのレベルをある程度均質にすることは可能です。じゃあ誰が揃えるのかというと、やっぱりそれはある一定の基準に達していることを判断することの可能なスペシャルな感性をもった人材になるわけです。
要するに、「私にしかできない仕事」と言うのは資料化・標準化で他の人がやること自体は可能ではあるのでこの言葉だけを見たら確かに幻想ですが、依然として「私レベルの人材にしかできない仕事」としては残るわけです。抜けられたら困っちゃうのですよね。確かに「私」が抜けても何かができあがるのでしょう。見た目のアウトプットだけは満たされた何かが…。それに気付かないで破綻している(≒手順や文書さえしっかりしていれば一定のものができると勘違いしている)プロジェクトもごろごろ転がっています。

そもそも、人件費に占める固定費は頭数に比例するので、タダでさえ月給30万の人×3より仕事が3倍できる90万の人のほうがお得なのです。さらにそういう人は上記で言う抜けられたら困る人なのですから企業として上手く遇する手段を持っていないと競争には勝ち残れないと思いますね。会社としては「誰がやっても同じ結果になる」手順なりを作ることを目標にするのではなく、「誰がやっても同じ結果になるように動ける」リーダーをきちんと抱えるのが必要なのであるから、働く自分としては、得意とするあるいは仕事をしたい分野でそういう人になるのを目標としていきたいものです。