生き残る可能性100%を目指す社会

つまり、昔からいじめも貧困もあったけど、今はそれらを社会的な建前としては根絶しようとするから目立つ。
人間に限らず、地球上の生物は競争して生き残ってきたし、競争に勝つことによって得られる利益は自分自身に投資される。富豪になって寄付を行うのも、偽善ではなく、自分が利益を得るための社会が消失しては困るという戦略的な発想に基づく利己的な行為ととることもできよう。理性では慈善と思っていても、その発想自体も本能から発達させた思考が支配しているに過ぎない。
good2ndの日記 「僕らが子供の頃はこんな陰湿なイジメは無かったよ」によればTVでは今だこのようなことを言う人がいるが、多分その人の認識自体は間違っていない。脱落することを許容する社会では態々脱落することを報道したりはしない。だから、昔はよかったとか、昔はなかったという話ははっきり言って何の意味もない。重きを置くところが違うのであるから。
今の社会の建前が「100%生き残る」であるかどうか。格差社会を推進する現在の政治を見ていればそうであるかは明らかだ。それなのに、あたかも100%を目指していますと喧伝する政府やマスコミ。素直に「脱落者は見捨てます」といえば楽になるのに、本音を隠してごまかしごまかしやっている。いじめを隠蔽することによって目指していないという明確な意思をばらすことが回避可能であれば隠蔽を招くのみ。隠蔽には密告は有効かもしれないが別の権力を導入するかもしれない。
幸いにして人間には理性というものがある*1。現状を正しく認識し、建前を現実のものとしていく力はきっとあると信じたい。しかし、「いじめは止めよう」というスローガンは解決の役にはたたない。社会自体が本音で「全員が幸福になるのが正しい社会」と言えるようになったとき、はじめていじめはなくなるのではないだろうか。
ところで、人が人の枠に入っている以上、生理的な作用による欲からは抜け出せない。突き詰めて言えば、喜びすら生き残る戦略によって獲得した生理的な作用にしか過ぎない。それによって今まで人間が生き延びてきたのであれば、果たしてそういう社会が可能なのかどうか。医療崩壊もそうであるが、社会全体が「100%生き残る」という建前すら放棄しはじめてきたように思えてならない。

*1:その理性すら〜〜という議論もあろうが