その権利は何のために

何日か前に起こったDiggでの騒動(これね)はウェブの自由に大きな影を落としたように見える。そう、ウェブにおける自由とは「無秩序」のことだったのではないかという。
日本でのそこそこディープなネットユーザーなら、2ちゃんねるがその無法地帯かのように見える運営っぷりで似たようなことをやっているということは認識しているんじゃないだろうか。もちろん2ちゃんねるの重要な側面は本来そこでは無いし、十分とはいえないまでも自治が行われ、良識のある人もたくさんいる(というより、ことが起こったときに良識が無い人が目立つだけだ)。
いずれにしても、かつての仮想空間だったウェブは、もはや現実との接点が多すぎて、仮想空間とは言い難い。それでもある程度時間と現実の空間を超越した世界であることは間違いない。そこには現実では得られない自由がある。その自由は空気であって、ルールではない。ましてや権利ではない。
一部の心無い人たちにより、空気は汚れていき、視界がどんどん狭くなっていく未来。そこは酸性雨が降り注ぐ退廃した世界。そんな想像を掻き立てるように今日もまたウェブで事件はおきる。毎日毎日。
そうではないだろう。まだ明るい未来は僕らの前に広がっているように見える。選択肢は与えられている。どちらを選ぶかだ。

それにもかかわらず、そのようなリスクをとることをDiggの運営陣に求め続けた一部のユーザーや、そのようなリスクをとるとの決断を賞賛するユーザーまたは外野の方々は、そのことによりDiggというコミュニティの場が消滅するかもしれないということについてどのように考えているのか、私にはよく理解できません。

コミュニティの場自体を消滅させるリスク: la_causette

僕も理解できない。このことはDiggの問題ではない。もはや現実の一部であるウェブが、権力者による浄化の必要な世界であるかどうかの判断が求められる一歩手前まで来ていることを予感させる。
自由という幻想のもと、決してただではないリソースを食いつぶしながら、ウェブを利用している僕らは、いつどのような形で対価を払うことになるのだろうか。