心配しすぎ?それとも楽観しすぎ?

いわゆる転び公妨をはじめとして、別件で逮捕しようとすればいろいろな可能性が現時点ではあります。にもかかわらず、今回の著作権侵害非親告化が騒がれているのはどうしてなんでしょうか。
著作物と言うのは思想がこめられているものですが、思想を表明することが別件逮捕につながるとすればそれは確かに思想統制のされた暗い未来に見えます。政府を批判した文章はあらゆる粗を追及され、少しでも隙があれば著作権侵害別件逮捕、と。公判維持できるとは思えませんけれども逮捕自体がダメージになるのであればそれもまたよし、と。
ん、違うな、そういう話ではない。「例えば、商業的規模」が問題になっているわけだな。例えばってくらいだから、まだ何をもって線を引くかを考えている段階だよね。だから、線をどういう風に引かせるかってのが話題の中心になるべきなんだけど、「商業的規模はあいまいすぎるから危険だ」となる。なんでだろう。
いかようにも解釈できるものを制定させると拡大解釈されるって言うけどね。それは違う、という気はないけれど、そもそもナイフを持ち歩くのが逮捕要件になると知っている人がほとんどいなかったくらいで、白と黒をはっきり塗り分けようと努力すること、つまり解釈の幅を狭めることは、世の中をどんどん生きにくくしている。僕には痴漢冤罪みたいな確率的に不運なことに対処するために、自らをどんどん縛っているように思える。
自分で自分を律して公明正大に生きることができれば、それでいいのだろうけれどね。言い訳は一切無用。ただ法に従うのみってね。