信念と主張

ネットで発信することについての向き不向きと言うのはそれなりに存在すると思う。その資質の一つであり、個人的に最も難しいと思っているものは、ネガティブな言及をどう相対化できるかだ。批判を非難と捉えたり、意見への賛同を人格の肯定に捉えたりすることで、自分を見失う。インタラクティブなメディアであることと、リアルタイム性が要求されることがあることが、ネットで発信することの特徴であるがゆえに、向き不向きがある。同様に、文章の飛ばしあいが得意でも面と向かって論戦を繰り広げることが不得手であることもあるし、その逆もある。文章に起こすとさっぱり筋が通っていないけれど、断片的な言葉が本質をついて相手に反論を許さなかったりする。
ネットでの論戦は、ログが残ることから言質取り合戦になることがままある。長く発信し続ければし続けるほど、言っていないことを読み取られることも多い。仄めかしを多用したり、文脈を読んで欲しいと言ったりするとその可能性は高まる。かといって、不用意なことを常に書き続けて言質を取られまくるのも面白くない
だから、というと全然前段を踏まえていないのだけれども、ネットで発信することが向いている人は、厚顔無恥であるか、または、批判を糧にすることができる人だ。前者においては言うに及ばない。ただ無敵である。無謬の存在だ。むしろ存在しないのと同じと言った方が良いのかも知れない。後者については、大抵の人間が持つ素養である。が、大抵の人間が絶対的な価値観の元でしか適用し得ない。変化することを敗北と捉えていれば尚更。極少数の例外においては、変化しないことが勝利であることは確かなんだけれども。
ぶれないだけのものを持っている、と高らかに宣言することができ、また、ぶれないことが硬直化の結果でないことを自覚している人間のみが、信念を主張に昇華させることができる。自分を誤魔化すための信念はいらない。僕は、常にぶれ続けている。ぶれないだけのものを僕はまだ持っていない。