頭がいい問題

どこにも言及せず独立して徒然と。
頭がいいというのは足が早いとか野球が上手いとか歌が上手いとかとか言うものと同じようなある種の努力を伴う才能であり、ある程度ポテンシャルによって限界のあるものではあると思う。
ある種の何かを「わかる」というのは、道筋を追って理解する、というのとは実はちょっと異なっていて、「ピンと来る」事がわかるという事象である。これは、全てにおいてそうだという話ではない。あくまである種のものについてのみ。ピンと来る、というのは概念の理解であり、概念は言葉で説明しつくせないことがままある。無論、「わかる」人は頭がよいのだ。その概念の理解においてのみは。ただまあ概念の把握能力があるということは他の概念にも適用されやすいから色々な局面で頭の良さを発揮することが出来る可能性はある。いずれにせよ、この手の理解は他者に説明するのは非常に難しい。
それとは別に、一般的に理解されていると思われる単語の組み合わせのみで説明できるものもある。語彙の問題でなければその手の議論が「わからない」のは努力不足であることが多いだろう。あるいは、説明が下手か。この手の話においては理解しているということは説明が出来ることとほぼ等しい。説明できないのは頭が悪い
概念の問題がジャーゴンに表出しているとき、それを「わかる言葉で説明せよ」というのは過大な要求だ。ジャーゴンがわかるところまで昇ってくるのが筋だ。そうでななく、平易な言葉に容易に置き換え可能なのにあえてジャーゴンを使用するのはフィルタリング行為である。そういったときに「難しいことはわからない」という言葉に対峙する場合、フィルター行為を皮肉られている可能性というのも考慮に入れるべきか。
いずれにせよ、わかる、という事実はわかった人、にしか認識されえない。頭が良いことは非常に客観的な判定がし辛い。
かつてジャズを始めたとき、Miles DavisのKind of Blueをお約束のように買った。何がよいのかさっぱりわからない。しかし、1年後、すっかりJazz脳として鍛えられた後で、引っ張り出して聞いてみたそれは驚愕の音楽だった。ピンと来るというのは、初めから受容体を持っている人は例外としても、感覚の外堀を埋めて初めて起きる現象であり、その為に必要な修行というのが必ずあって、それでも万人が到達するとは限らない。そのことを持って「頭が悪い」と言ってしまうことはもちろん僕には出来ない。