書く事と傷つけること。

およそ何かを表現することはそのことによって誰かが傷つくかも知れない可能性のあることである、という命題に対しては異の唱えようが無い。これは、特にウェブにおいて、書いたものが本人から切り離された一個の断片的な死体にすぎないと言うこととは直接関係はないとは思う。究極的にはコミュニケーションとは全て表現であり、常に誰かを傷つける可能性をはらむ。
極端な話、生きると言うことそのものが人を傷つけている。人だけではなく。物理的には地球上のあらゆるものを損傷しながら生きている。
コミュニケーションとは。常に人を傷つける「可能性を持つ」ものであり、ウェブのような場所に置かれたその断片は、断片であることそのものが傷つける要素を増大させている。破片。その人そのもの、その人のコミュニケーションそのものよりも、必ず尖った角が多いだろう。
それでも、一つだけ思うのは、傷つけるかも知れない、と言う明確な認識のもので、尖った先を他人に向けることと、そうでないこと、つまり傷つけると言う意思が介在するか否かと言うのは大きな問題であり、その意思が断片の先を磨いて尖らせるという行為であるならば、それは本来は傷つける可能性の低い断片をより傷つきやすくすると言うことだし、また、先の丸い側を向けている断片の後ろの尖ったところにわざわざ指を持って行って傷つけるような行為も自らの意思の下になされる行為ではある。自傷だけれども。
ともあれ、傷つける、と言う意思により行われた行為を他の「可能性のある」行為と同列に扱ってよいものかということについて僕はそれなりの疑義を持っていつつも、完全には否定し得ない。それもまた生きると言う行為だ。ただ、鋭い断片と言うブーメランを投げ続けることによってその先が致命的なまでに尖っていき、いつかそのブーメランが制御を失い、本人、あるいは他人に刺さってしまうのであれば、断片を打ち砕いても止めなければならない瞬間はあるのではないか、と思ってしまい、その場に近づくべきか、迷ってしまうのである。