ウェブに対する社会の認識

先日、友人の高校教師(数学・情報)と話していて、「プロフとかスゴいよね。大丈夫なのアレ?」と言ったら「プロフ?なにそれ?」と返されましたよ(笑)
…世間の認識とはかくのごとし。問題は2つ。周囲の大人が子供達の利用しているものを知らない。これは問題発生時の瞬発力や事前認識に関わる。もう1つ個人情報の大切さについての教育が多分不十分。
友人の学校は進学校でもあるし、問題は起きてないのだろうけれど、通達が回っているわけでもない。規制より前に現場の教育だよなあ。
監視のすべがないと考えているから規制に向かうのかも知れない。確かにネットワークはいたちごっこ度が高くて把握しきれないと感じるかも知れないしゲーセンや雀荘に補導しにいくのと比べて現行犯度が低いから白を切り通されると直接は怒れないかも知れない。でも教師だって全国に山ほどいるんだから組織的な監視って実はできるんではないか。もちろん、隠蔽体質という大きな壁が立ちはだかっている。
つまり、規制ってのは手抜きのために自由を犠牲にする行為だと解釈することができる。世間の人はインターネットのことを理解したいなんて思っちゃいない。ただ便利に使いたいだけだ。規制が表現の自由を侵害するなんてことはわりとどうでもいい。自分の書くことが規制されるなんて思ってもないから。ホームページはプライベートと勘違いしている人も多い。そして現実として、そういう人が規制の犠牲になることはめったになく、だから妥当な規制と見なされてしまうだろう。
ネットはダークサイドだという認識は、ある意味では正しい。それは十分に光を当てていないせいではある。そして、光が当てられたら生きていけないものが潜んでいる。ネットは現実より、光が当たったときの曖昧さが少ない。
僕は時たまネットがダークサイドを脱したいのかどうかという疑問に突き当たる。自由が立脚しているのは何によってか。猥雑なインターネットが好きだ。ダークサイドと呼ばれることにある種の誇りを感じる。かくも自由な世界。だからこそ規制は当然で、その網の目をかいくぐる。ネットができる前に自由を求める人がしていたことを。今にわかに現れた低コストな手段に甘えてないだろうか。そんな風に。表現の自由っていつからネットの既得権益になったんだっけ。今までなかった手段を得たことで可能になった?きっと明治期の新聞もそうだったに違いない。無論現在のような普遍的な自由という概念と、我々がそれを持っているという疑いない事実の認識はなかったのだろうけれど。
みんなが本当に望んでいることは何ですか?光を当て浄化し、胸を張ることですか?それとも。
現状からみて、ウェブにおける表現の自由は持っているものを奪われる、という問題ではないのかもしれない。これから勝ち取っていく、確認していくものであるのかも。だから、単に座して傍観していることで結果として規制されちゃったらどうしようもない。許容できないなら立ち上がらなければ。我々は有権者なのであるから。
世間の認識は一つの壁だ。ウェブという世界が世間に露出したときから、いつかこうなるのはわかっていたはず。昔を懐かしむのであれば再びマニアだけの世界を作ればよい。そうでないのであれば、世間にこの世界を認めさせるようにしていかなければならない。