「読まずに批判」とか「行間を読み間違えて批判」とか

哀しいといえば哀しいんだけど、仕方がないことではあるし、むしろその状態が「ありえる」ことを積極的に肯定したい自由ウェブ主義者のnovtanですこんばんは。
でも、それなら一つ前のエントリを何で書いたかのか、ということになるんだけど、ちょっと気になったのがそこに到るプロセスなんですよね。以前、色々とネガティブな話を書いているんだけど、だから、ということでタイトルを主張的につけてみたエントリのコメントにお前タイトル読んでないだろという感じでのコメント(つまり、タイトルの主張無視ってことね)が付いてちょっとアレって思ったことがありました。んで、tumblrになんか広まったあるエントリの部分について、引用(というか転載)+批判って感じに書いている人がいて、これってどうなんだろ?って思ったわけです。
もちろん、僕なんかも他所様のサイトから引用してその部分を批判していることは多々あるんだけど、それは全体を読んだ上で必要なところを引っ張ってきているわけですよね。たまに脊髄反射的部分批判がないことはないけど。それを見ている読者の方は元記事まで飛ばないかも知れない。もしそれで僕に同調してしまった場合、僕が辿ったロジックにまで同調したわけじゃないから、僕の記事を信頼する、ということになるわけですけれども、元記事読んでみたらそうでなかった、ということはあるかも。でもそれは読んだ人の責任ではなくて書いた人(つまり僕)の責任ではあります。
Tumblr(に限らないんだけど、そういう仕組みのあるもの)で、転載⇒転載⇒転載の繰り返しの中でコメントをつける人って元記事を本当に読んでいるのかな。誰かが転載した時点で元記事の文脈から切り離されて、それを見た他の人ってのは上記の例で言う僕が書いた批判記事みたいにそのピックアップ部分がコンテンツそのものであって、それに対しての直接批判(なり意見なり)をしているんじゃないか、って思ったわけです。もちろん、リンクは張られているんだけど、アクセスログリファラーに見当たらなかったようなちゃんと見れてなかったような。
批判そのものはそういった場合にはかえって新しい視点を得ることが出来たりする(もちろん、この場合は元の主張は揺るがないけどね)のでむしろ歓迎ではあるんだけど、通じなかったんじゃなくて読まれなかったんであればちょっと哀しい気分になる。それだけのこと。