つまらないことの表明は評論の範疇じゃないから一冊読んでも言ってよい

つまらない、を言うためにそのジャンルを量的に制覇する必要があるかというと、そんな相対的なつまらなさは表明するに当たらない。

世の中に流通しているたいていの本は、つまらない、以前にどうでもいい、なので、ある特定ジャンルの本に限定して面白い・つまらないを語るなら、そのジャンルに属する本を全部読んでから言うべきだと思う。

たいていの本はつまらないので、あなたががそのジャンルの本全部読んだ上で「つまらない」と、ある本を言うんだったら認めてやるよ - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

この言葉に対する感想は一つ。どうでもいいを語るなら、そのジャンルに属する本を全部読んでから言うべきだと思う。
そんなわきゃないよね。価値判断を示すことにおいて、その相対的な価値を示すことが出来るのは一種の技術であると思うけど、ある断点においての絶対的な価値観を感想的に示すことが許されないとは全く思わない。何故つまらないかの分析なんていうのはそのジャンルを評論していくことについては必要であるけれど、読書ガイドに必要かというと、必ずしもそうではない。ある程度ジャンルを把握して初めてわかる面白さ、というのはもちろんあるから、その点をすっ飛ばしてつまらないという人はどうなのよ、と思う気持ち自体はわかる。
前にも書いたけど、僕がジャズを聞き始めた頃、マイルスのよさはさっぱり分からなかった。いろんな文脈をしって初めて面白いと思った。じゃあ、その最初に抱いたつまらないという感想は嘘だったかというとそんなことはない。需要体が出来上がっていない人間にとって面白くないのは確かだし、人に勧めるとしたら「最初は面白くないかも知れないからオススメしないけど、いつかは必ず聴くべき」というだろう。そして、聴いた人が「つまらなかったなあ」と言われたことで何か通用を感じるかというと全くそんなことはない。わかってるもん。つまらないもん。そしてもしかしたらそのうちわかってくれるかもしれないから。
評論という行為は違う。評論はある意味衒学的な要素をもった文学/社会学/経済学/自然科学/etc...的行為だ。創造的行為である以上、模倣に終わることはまったく意味がない。過去を繰り返すことにも意味がない。例えばエンタメ小説であれば換骨奪胎翻案行為というのは十分に価値のある行為ではあるけれど、それを文学というかというと狭義的には違うだろう。評論も同様で、同じ事を繰り返さないためにはそのジャンルに属するものを実質的に制覇していないと意味がない部分はある。評論的文脈における「つまらない」は分析的な「何故」であることが求められるから、感性が合わないことにとっても一つ一つ理由がいるのだ。もちろん、その評価軸の中に、自分自身の絶対的指標がなければならないし、その指標を作る行為そのものがジャンルを制覇し、整理することではある。むしろ、ジャンルの枠の中に囚われているだけではいけないぐらいのことが求められている。
感想のつまらないにそれが必要だと思わないし、表明することが悪いことだとも思わない。感想にとって感性こそが全てであり、それが変わり行く事についてなんら責任を負う必要はない。もちろん、そのつまらないということがその作品そのものがもつ絶対的な評価になりうるか、というと絶対になり得ない。個人の感想なんてその程度のものなんだ。