何らかの説明をつけたい心理

歩行者天国を規制したって、ダガーナイフを規制したって、通り魔に襲われる可能性がなくなるわけがないってのはみんなわかっていると思う。でも、比較的安全と思われていた場所で凄惨な事件が起きるということは、いつ自分の身に同じことが起きてもおかしくないって事だ。そういった意味では、この社会に生きること自体が当事者性を持っている。たった一つの、これを防げば二度と起きない原因なんてない。人間の精神をマシーンにしてしまえばあるいは。でも、何一つ原因がないというのはあまりにも不安だから。偽りの回答だとわかっていても、可能性を減らしたい。
二度目になるけど、引く。

「けれど、たとえば、面白いからやりました。では、納得ができません」
「そう……、つまり、面白いからやっていたのに、犯人が本当のことを自供しても、それでは納得してもらえない。変な話だね。どこに問題があるの?」
「問題?」
「納得できるものと、納得できないものの違いは何?」
「えっと……」西之園は考えた。「あ、そうか。つまり、面白いから、という理由では、防衛のしようがない、ということですね。」
「そうだ。それが、いわゆる納得できるということだ。

ηなのに夢のよう (講談社ノベルス)

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納得できる答えを求めて、しばらく世間は騒がしくなるだろうけれども、また日常が戻ってくる。でも、一番大切なのは、事件のことを忘却しないということなのかもしれない。歴史は何故繰り返すか。自分だけはその罠には嵌まらないという心理のせいなのか。原因がわかっているから、同じことは繰り返さないと言う過信なのか。
一つの原因を潰せば、起きなくなるなんてことはありえない。でも、もしかしたら、一つ一つ、色々なものの原因を潰していけば、いつかは解決するかも知れない。ただ、その潰されることが何かの抑圧であることがある。それは別の問題の原因になるかもしれない。
人間が機械でない以上、それが正しい。全てが論理とルールで解決するのであれば、それ以降、人が思考しなければならない意味を見つけることは難しいかもしれない。