極限状態じゃないなら、別の選択肢があることを示すのも経営学なんだろうね

経営学以外の観点からも、当然扱われることだとは思いつつ、それはそれ。現実問題として。

fuku33さんは、
・福祉業界には様々な制約(金・人)の中で、対象者により良いケアを実施しようとしている。
・大学のOGは目の前の要介護者により良いケアを、という理想と、厳し現実の前に板ばさみになり、燃え尽きてしまう人がいる。
経営学の考え方が、そういった人の助けになるはず

邪推のしすぎじゃありませんか - タイトル無し!

経営学の考え方、というのが一方的に「極限状態で資源配分を最適化すること」である、とされているところがありそう(全体の議論として、ではないけど)なのも問題の一端なのかな。
「自分が頑張って燃え尽きる」じゃなくて、「資源を増やすように要求する」というのも一種の経営学の問題ですよね。リソースを増すことが、まず現場の人としては要求するべきことなんだよね。そのへんは先に紹介した「デスマーチ 第2版」での身の処し方についてのエッセンスでもあります。
全体的に見て、現場の人間が燃え尽きることが最適どころかそれ以前の問題であることは明らかです。「代わりはいくらでもいるから」的な、IT業界的な、そういう発想が人道的にはともかく現実の経営として成り立ってしまう場所の問題はあるけれども、人が足りなくてその他の資源も足りないところではね。
誰も「経営学の考え方を導入するとホロコーストだから現場の人間は燃え尽きればいい!」なんて言っていないけれども、じゃあどうすればいいのか、となったときに代案がないと、そう言っていると捉えてしまう人が出てくるのもある程度仕方がないのかな。
どうしても、資源が足りない、という状況は特にミクロ的な状況では起こりうるわけです。一人しかいない人が緊急呼び出しを二つ受けるような事態。全体として、そういう状況にならないように人員を手当てする、ということが可能かどうか、というと例えば要介護者の人数に対して三交代分、つまり三倍の人数を手当てすることは可能か、と考えるとそりゃ無理で、まあ緊急時がどんなに重なってもこの程度なら大丈夫だろうというシフトが関の山、それを超えたときに何を優先するか、というのを予め決めておく、というのがトリアージにある程度なぞらえることを許されないかというと、そこは議論の余地がありそうだけど。
トリアージの現場は悲惨なんだ!というのは他のシチュエーションの倫理的葛藤を相対的に低く見ているようにも思えます。銀行員が町工場の融資申請を通そうとしてもどうしても上のハンコが押されない、一家離散あるいは首つって保険金で借金返済が目に見えている人に金を貸せない、という状況が(個人として)悲惨ではないとは到底思えないし、そういう話って生きていれば沢山あることだと思うけれども、なんだかんだで理由をつけて、正当化して、生きていくんですよね。
まあ、こうやってトリアージの概念をどんどん拡大していく、というのはあまり良くないとは思う。医療現場ならではの要請があってはじめて成り立つ部分がある言葉でもあります。
言葉の問題でなく、内容の問題については極北の例として思考の端緒にはなりうるし、類似点、あるいは非類似点を整理することで見えてくる問題もあると思う。アンタッチャブルな話題では決してないと思いますけどね。