作家の政治性と賞

紛争の渦中のイスラエル(といったらもう何十年もそうなんだけど)の文学賞エルサレム賞村上春樹が受賞することになった件について騒がしい。
現役で、賞を受けることに対して政治性が問われうるかというと、それはそうだとは思う。本人の政治的な見解が無色であればあるほど外野はうるさい。どうとでも捉えられてしまう。
以前、作品と作家は切り離せるか、のような議論をした。そのときは「生き方を伴わない作品は小説ではない」というような意見に僕は反発した。太宰の作品は、あの太宰が書くから意味があるのかどうか。後世(というと大げさだが)の人間からしてみればそこに人生が投射されていようがいまいがどうでもいい。作品のありようが作家の精神性からまったく独立することができるなら、フィクションとしての作家性であると思うし、作家の人間性そのものが投射されていたら人生からの抽出力に優れるということだろうと思ったりもする。
ノーベル平和賞をそもそも賞をもらわないポリシーとして辞退する人もいれば、政治的な思想(爆弾で得た金などもらえるか、みたいなもの含む)から辞退する人もいる。およそ無味無臭の賞などあるまい。没後100年くらいの評価が作家性にとっての本当に価値あるものなんじゃないかと思う。
作品自体の評価と、作家の政治性というのは十分に独立しうる。だからといっても、賞を受けることが批判の対象になることは仕方がない。作家の行動は作品を読み解くにあたって考慮する対象にもなるだろう。
ただ、そのことが既存の作品の価値を変えることもないだろうし、作家が政治の毒に染められ変容したり干されたりしなければいいなとくらいしか思えないけれども。
作家の行動を批判するのは筋違いではないと思う。その批判が妥当であるかどうかは別として。