不愉快を、我慢してるが抑圧だとは、思わない

個人的な不快感を我慢することが結果的に何かの(たとえば発言の)自由に繋がるような場合、多少のものは我慢することが多い。それを「我慢させられている」ととるのか「我慢している」ととるのか。
人対人の関係によって、不快感も左右される。あいつに言われるのだけはいやだ、というとき、じゃあ他の人に言われるのなら我慢できるのかと問われたら、はいと答える人は結構いるよね。その場合、問題は、内容じゃないんだ。
バカにバカというのが問題視されたりされなかったり。自分が不快ならセクハラですとか。
ウェブでのコミュニケーションでは不快を感じる相手の顔色を見えない。ウェブに記録された不快の元が消え去るまで長い時間を要することが多い。現実でも、相手の顔を見てやばいとも思わない人がいる。往々にしてハラスメントの源として。
ウェブではよいか悪いかの距離感を見極めるのはきわめて難しいよね。やってみないとわからないところもある。10年ROMればよいのかもしれない。もう10年ROMってる人はレアじゃないよな、そういえば。
自分なりの基準を見せていくことが大事で、また、指摘を受けたほうも、相手をウェブにいる総体的な何かではなく、個別の性格をもった存在だということを意識していくのがよいのかもしれない。