憎しみは連鎖して

話題騒然、真偽不明というのはウェブに限ったことではないけれども、心を打つ話ってのはいつも誰かの思ったこと、感じたことを媒介にする。事実であれ、フィクションであれ。

先に結論というか、書いておくけど。
今から話す内容に出てくる子がどうなったか、先に書いておく。
ソニアは殺された。
サニャは爆発に巻き込まれて死んじゃった。
メルヴィナはレイプされて連れ去られた。
メフメット・カマル・ミルコはわからない。
カミーユも死んでしまった。
ドラガンって子は、裏切ったと思っていたけど、実際は違った。

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ここから始まる物語は、とてつもなさ過ぎて、なんていっていいかわからない。悲壮感に満ちていて繰り返し描かれる、「殺さなければ殺される」の連鎖。どちらが悪でどちらが正義でもない。民族としては当事者ではないものが、どちらかへ肩入れする理由は当然個人の人間関係でしかないんだけれども、それを超えたときに反対側の事情も理屈として受け入れざるを得ないという立場であることに気づかされて、苦しむ。
これは、紛争が起きている世界において、さしあたってどちらに肩入れすべきでもない立場に立っているわれわれが常に理解していなければならないことなんだろう。

252 :祐希 ◆.0dKn/WD26[sage] :2010/05/23(日) 06:25:22.80 id:kv3yaWMo
子どもたちに継承された恨みや禍根が、何度も、何度も同じ悲劇を繰り返してきたんだ。
それを断つには、周りの、世界の人々の手助けが必要だと思う。
そして、そういった時に、日本だからこそ出来ること、日本だからこそ
手助け出来る事があると思う。パレスチナイスラエルの子どもを結びつけたように。
最後になるけれど、この紛争で亡くなった全ての方々のご冥福をお祈り申し上げます。

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客観的な立場から見ると、どうしてそんなことで争わなければならないのだろうということはたくさんある。ロミオとジュリエットの悲劇だって、本当は起きてはならない。

ちょうど、「花と火の帝」を読んでいた。隆慶一郎の未完の遺作。

「殺し合いと言うことは、正しくこういうものなのだ。今度こそわかったか、岩介」

後水尾帝は隠密の岩介にこう声をかける。繰り返し不殺を唱え、幕府の執拗な攻撃に耐えてきた天皇とその守護者たち。どうしても我慢できなくなり、相手を殺してしまった後の復讐の連鎖。結果として起こった悲劇に対して、復讐を唱えるのではなく、殺すことの不毛さをとく天皇
遺された、活動期間にしては少なくない、けれどもまだまだ生み出されたはずの隆慶一郎の作品では、戦国〜江戸初期が題材だから、ばたばた人が死んでいく小説ばかりだけど、一貫して「人間として生きる」とは何かを問い続けていたように思う。常に生は悲しみとともにあって、それを乗り越えて生きなければならないように。


さしあたって必要なことは、悲劇が起きていることを知る、ということではないかと思う。そういう点で、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、この物語との出会いには感謝したい。

花と火の帝(上) (講談社文庫)

花と火の帝(上) (講談社文庫)

花と火の帝(下) (講談社文庫)

花と火の帝(下) (講談社文庫)