これからの幼年教育とは

年末頃の話題。
http://alfalfalfa.com/archives/1374811.html
これをきっかけに、正しいの正しくないの、大人の世界のルールを押し付けるのが教育だの教育じゃないのといろんな議論が巻き起こったものです。

元旦の朝日新聞トップ記事。

教師の「教え込み」から、子ども同士の「対話」へ。その先に広がるのは、新しい価値をともに創りあげる社会という未来図だ。

http://www.asahi.com/edu/news/TKY201012310282.html

先生はどれが最もよいか言わずに授業を終えた。唯一の「正解」を求める時代は、終わったと思うからだ。

http://www.asahi.com/edu/news/TKY201012310282.html

教育がどうあるべきか論を外野がわいわい言っているのを尻目に、現場はここまで進んでいるようです。ざっと記事を読んだ限りは、少なくとも思考することのトレーニングとしては今までにはなかったものだとは思う。ただ、こういうのって、「何を教えるべきか」の中にはなかなか入ってこない類のものだよね。唯一の正解が必要なものはあるし、それがルールであれば、なぜそのようなルールになったかの理解を全ての子供たちが出来るとは限らない。対話で何かが解決することが当たり前と思って社会に出たら、理不尽なルールを押し付けられて萎えてしまったり、そもそも対話についていけなくて落ちこぼれることもあるかもしれない。テストの点はいいはずなのに、コミュニケーションのとり方が上手くできない人が居たら、従来であれば、なんとか生きる道が見つかるのをぶち壊してしまうかもしれない。

教育は、最大公約数でも最小公倍数でもダメって言われてしまうものなんだろうと思うのです。

ただ、このような思考能力のトレーニングは従来の科目単位のカリキュラムではなかなか実現できない。あるいは、先生の資質次第であったりなかったりする、というモノだと思うし、だとしたら、それは「運」の要素によって教える内容が大幅に変わるということになると思うわけですね。だから、このような内容で授業をすることが効果的であるということが評価されるのであれば、科目として時間を割くことも大事かもしれないのではないかと思います。問いに対しては正解があったほうがよいし、その正解を提示することを犠牲にしてまでこのような場を設けなければならないのはなにかおかしいかな。