コンテンツの互換性に未来はあるか

本=テキスト、レコード=音声、映画=映像+音声。
これらのコンテンツは記録されるメディアを変え、ずっと生き延びてきた。もちろん、解像感とか、メタ情報とかは全然違っていたりはするけれどもね。
一方、ゲームとか、業務ソフトとかは過去のコンテンツの互換性をしばしば切り離している。ファミコンのソフトを今もっていても、ハードを持っていない限り、遊ぶことはできない。いや、持っていたとしても、RFケーブルはアナログ対応テレビにしか繋がりませんよ、と。
また、昔の業務ソフトで作ったデータの保存形式がバイナリだったらそう簡単には復元できませんよね。

コンピューターの時代って、コンテンツの互換性を意識しない時代、つまり、コンテンツ使い捨て時代なのかもしれません。ゲームにしても、エミュレート形式で新たに売られたり、リメイクされたりするのはほんの一部のものでしかない。OSなんてサポート切れとかいって無理やり使うことを止めさせられちゃったりもする。

もっとも、音楽メディアや映像メディアも似たようなもので、MDやDCC、あるいはLDやVHDを再生できる環境がある人などもうあまりいないだろう。VHSだって危ないし、いずれDVDも同じ道を辿る。

本はやっぱり最強で、素でコンテンツと再生装置を内蔵している。映像だって、動画だからいかんのだ。映画のフィルムはまだ良いほうだ。音楽は楽譜から再生可能かというと、一部の限られた特殊技能を持つ人のみがそれをなすことが出来る、かも知れない。でも、レコードは振動をそのまま記録しているから、デバイスが絶滅してもわりかし再生は容易だ。

iPhoneだアンドロイドだのアプリに搭載されるコンテンツ。そのデバイスでしか再生できないコンテンツに未来はあるのか。なんだかんだでそこそこ機能している音楽などのダウンロード販売を考えると、「永遠に所有する」ことに価値が置かれなくなったのかもしれない。もっとも、それは記録メディアがデジタル化したところからスタートしているわけだが、意識させていないだけだ。ダビング10コピーコントロールCDなんかで否応なしに意識させたれた人もいるかもしれないけれども。みんな、コンテンツの永続性については驚くほど無頓着。でもそれは実に値段相応のこと。
既存のコンテンツには「所有するため」に、本来の価値以上のお金を払っていたのかもしれない。逆にいうと、それだけのお金を払ったのだから所有させろ、というのがCDから再生デバイスへの無条件のコピーを可能とすべき、あるいはダビング10などおかしいだろ、という発想の根拠なのかな。

コンテンツが所有から消費に移行していく過渡期にあって、個人としてはそれでもよいけれども、人類の財産としてのコンテンツの保管と言うのは意識しなくてよいのだろうか。歴史的にみても別にコンテンツは不滅のものであるわけでもなく、戦火や時の権力者によって亡逸したりするけれども。

これは単に消費されるべきものではない、と思ったコンテンツを如何に保存し、伝えることができるか。これからの課題はそのへんにあるかもしれません。