Twitterが顕わにした人間のどうしようもなさ

でかい事件があったのもひとつのきっかけかと思いますが、昨年はTwitterがかなり飛躍したなんじゃないかと思います。2008年くらいの記事を読んでいたら、Twitterはどうなんだろう、みたいに書いてました。まあ、当時のTwitterバルスなんてとてもとても耐え切れるとかそういうレベルより遥か下の使い勝手もレスポンスも悪いウェブアプリだったんですけれどもね。
しかし、未だに自分の考えを開陳するのにTwitterを使う、というのには違和感があってほとんどやっていません。どうも継続的な議論がしづらいし、まじめにはじまっちゃったらなんだか拘束される感じだし…雑談しかできないと思っている。でも、みんな普通に使ってますよね。

にしても、ずいぶんといろんな立場の人がいろんな発言をしていました。特に原発の問題については諸説入り乱れて殴り合いみたいな様相を呈していましたね。今更な話かもしれませんが、一度「自分はこう思う」という風になってしまうと、よっぽどのことがない限り、そちら側の立場に有利な意見は採択しがちだし、不利な意見は却下しがち。人を説得することはやっぱり難しい。

驚いたのは、大学生や大学教員において、科学的なアプローチを拒否している人が結構いた、ということ。論理学的(人文科学的、なのかも)にモノを考えなくて論文書けるのか。もっとも、自然科学の知識がないからわからない、ということは沢山あります。ようはモノの考え方がどうかということなんだけど。

そういう話はおいといても、いろんな人のいろんな部分を垣間見たと思う。Twitterは考えがまとまらなくても、いや、あえてまとまらない状態でぽちっとしてしまうものだけど、一度ウェブに放り出した言葉は取り戻せないわけで、脳内のどうしようもない、理性によって抑制されるべき思考の断片が漏れでてしまう。
人間の思考なんて、常に社会に対して清廉潔白であったり、正しく整理された考え方で埋まっているわけではない。だから、言葉に出す前に社会的基準でフィルタリングするわけだ。ところで、実際に人と相対してしゃべっているときは、そのフィルターは状況という外部条件によって強度を増す。または脆弱になる。一方、PCで、あるいは携帯でぽちぽちやっているときは周囲の状況にかかわらず、パーソナルな空間となってしまっていることが多いだろう。そういう空間の違いが実際に喋る時とは異なるフィルタリングの基準になるのだろう。

もっとも、普通に考えたら発言する自分自身が置かれている場はともかくとして、発言する先はこの世の中で一番広い(そのぶん多く制約があるべき)空間なのだけれどもね。わけの分からないことを言っている人はでもそんなの気にしてないね。とすると、そういう人は現実フィルターの中ではなんとか場が守ってくれることによって顕わにならなかったいろいろなものが、守ってくれる場も人もいない空間に間違って出てきちゃったことによって顕現してしまったということなんだろうか。

とんちんかんと思われる発言をする人も、実際に現実の場において全然ダメなヒトかというとそんなことはないと思うんですよね。でも、インターネットで何かを言うには向かない人。悪い意味で正直的な。

別に、みんなみんなすべてのことにおいて正しい考え方を持たねばならない、という社会なわけではないよね。こう言っている僕自身、間違ったことを考えていることだって多いし。でも、社会に表明するのであればそれ相応のやり方はあるし、そのルールはより普遍的でかつ複雑だ。なので、インターネット、特により考え方がストレートに出てしまうtwitterには向かない人、というのがいるんじゃないかと思うなあ。