今だからこそ言いたい「正しく怖がれ」

そろそろ一年が経とうとしているのに、まだ何が正しくて何が正しくないのかがわからない状態が続いています。
僕の予想では、おそらくあと50年はそういう状態が続くのではないかと思います。

最近、父親が胃穿孔になって、そのときの念のための検査によってごくごく初期の胃がんが見つかったんだけど、無事取って来ました。国立がんセンター中央病院って綺麗で広くていいね。最近は癌を検査する放射線の発がんリスクの方が高いとかそういう話もあって非常にアレですが、原爆手帳所持者である父親の発がん度合いはその程度のものだったとは言えそうです。一人の経験則でものを語って良いのであれば、「原爆による放射線の影響は長期的にはなかった」といって良いことになります。もちろん、そうじゃないよね。

まあそんなこんなでうちの父親は1945/8/6に広島市内にいたにもかかわらず、健康に生きています。

さて、放射能のリスクが突然やってきた、無理やり評価することを押し付けられた、迷惑千万なもの、という意識がある人は結構いるみたいです。実際には、日本は「戦争による*1」唯一の被爆国として、疫学的な調査もなされていますし、原発を作るときのリスク評価や、海外での核実験等々、色々な問題は常に語られていますし、X線検査で日常的に放射線に触れる機会も多いわけです。別に突然現れたわけではないし、もんじゅや六ケ所村の事故の時だって問題になっている。のだけどさ。

突然、ゴミが投げ込まれたわけじゃないんだよね。標準的な日本人にとって、放射線リスクを評価する機会はかなりたくさんあった。だけれども、それを自分の問題と認識していないから、いざ問題に直面した時に、再評価する基準を持っていなかった、ということなだけだと思うわけです。つまり、考えることをサボっていた。

現代社会において、人は理性的であり、ある程度の論理性があり、過度に利己的ではないことを求められています。それは、民主主義が成立するためのベースでもありますね。愚行権なんて言葉がありますが、本質的には愚行権は公共の福祉に反することが多いため、行為の責任を取らされることが大半かと思います。人は愚かなままでいてはいけない。仮にそれが許されるとしたら、他人に干渉しない範囲でのみのことかと思います。
この一年、さまざまな「放射脳」を見てきましたが、アホか死ねよというレベルから、ちょっとだけ考え方を変えればよいのにね、と思うレベルまで本当にいろいろです。最終的には、「何を信じたいのか」がポイントになっているのだろうと思います。

もう、1年が経とうとしています。確かに政府の発表、東電の言い訳、学者たちの言い分、いろいろ納得行かないこともあると思います。でも、自分にふりかかるリスクが社会全体の活動に対してどの程度のものなのかを考えていかなければいけないですね。極端な話、交通事故のリスクも日本経済が停滞することによるリスクも同じくらい問題なんですよね。

放射能怖いから一切拒否、というのもひとつの評価であることには間違い有りません。でも、他人にそれを強制することはできない。逆に言うと、放射能大して怖くないから大丈夫、ということを人に押し付けることもできそうにないですね。じゃあ、その相反する2つをどのように折り合わせるかというと、社会が何を採用するかになってしまいます。じゃあ、その社会が採用したリスク評価の基準は正しいのか、ということを突き詰めていった時に、自分の判断がそれと違う結果になった際にできることは、出ていくことしかない。
実際に、「日本は(経済的に)もうダメだ」といって海外に出ていった人はここ10年くらいで多いんじゃないでしょうか。それと原発の問題は本質的には一緒です。

「正しく怖がる」というのはとても大きな問題です。それを突き詰めると、最終的には「自分が残るか残らないか」という問題に帰結してしまうのですから。
これは個人的な意見でしか有りませんが、瓦礫の受け入れ拒否とかそういうレベルですら大きな(自分の社会的地位やその他をすべてリセットしてでも避けなければならないレベルの)リスクがあると思っていたら、僕はもう日本には居ないと思う。

もう、政府や東電の対応に怒って何かを考える時期は終わりました(政府や東電を非難するなという意味ではなく、リスク評価の基準に不誠実さとか過去の対応のまずさとかを上乗せして考える必要はないという意味です)。1年経って、十分考える時間があったのに、未だに陰謀論とか、頓珍漢な理論とかを撒き散らす「放射脳」は今こそ糾弾されるべきだし、同情の余地は次第に薄れていきます。
わからない、わかりたくないのであれば、他人の評価に依存して生きるのもひとつの手段です。でも、他人の評価に全面的に依存するのであれば、そのことを人に押し付けるべきではない。

もっともらしいことを言って間違ったリスク評価を撒き散らす人に間違って乗ってしまっている人もいるし、そういう人はその人を信じたからこそ、それを広めなければならないと思っているのでしょうから、そこを改善するのは難しいのかも知れません。

だから、今こそ、「正しく怖がれ」を声を大にして言わなければならないし、もう一度冷静になって考えてみる必要があるのではないかと思います。

今起きていることは、他人事で、目の前から見えなくなっちゃえばなくなる、というものではないのですからね。

*1:劣化ウラン弾はどうなんだ、という話はあるのかな?