あずまんの周回遅れ感が濃厚になりつつある気がする今日この頃

新進気鋭の評論家として登場した東浩紀も、震災からこのかた、言うことがぱっとしません。というか、言葉に厳密性がない。これはTwitterなんていう適当ツールの弊害なのかもしれないけど、自他共に認める「評論家」というお仕事の人にしてはちょっとどうかと思います。あ、一般意志2.0は読んでないな…

さて、ちょっとこれはどうかなと思った話。元ネタはここ。東浩紀「情報そのものを売ってマネタイズするのが不可能。無限に複製可能なデータに、金なんか払うわけがない」 - Togetter

情報産業、という言葉を非常に狭く適用している気がします。それはさておき、情報そのものをマネタイズしている商売なんていくらでもあります。それがたとえ複製可能であってもね。例えば、帝国データバンク。ここでのマネタイズについては、情報の鮮度、一元化が大きなポイントかと思います。更新継続性のあるコンテンツは入手してはい終わり、じゃないことによって価値を得ている部分はあります。例えば、ゼンリン。地図なんてGoogleにいけば見れますが、じゃあそのデータをどこから持ってくるか。

とまれ、あずまんが対象にしているのはコンシューマー向けコンテンツの事だと理解しましょうか。にしたって素敵な発言ですよね。

だって、「それにしても、情報そのものを売ってマネタイズするのが不可能だということに、ひとはなんで気づかないのかな。」ですよ。気づかないとか…
それどころか、「ひとは、手に取れるパッケージが経験にしか金を払わないのだ。」ですよ。この流れだと、「もはやユーザー一人ひとりから集金できる時代は終わった」くらいの発言が来るかと思うのが普通ですよ。ここでパッケージ回帰かよ。というか、経験ってなんだ?

「手の平サイズの機器で無限に複製可能なデータに、金なんか払うわけがない。これは原理的にそう」とおっしゃっていますが、なぜ原理的にそうなのか。少なからず、ダウンロード販売は伸びています。これは音楽の世界でもゲームの世界でも。そのことに対して「原理的にそう」なんて言われても何のことやらです。

元々、商業コンテンツの世界というのはある程度芸術とは切り離されて考えられますが、枠組みの中に芸術も入れておくことでそれを支援することはできます。一方で、学術分野は別のニーズとして存在していて、ニーズがなくなると失われてしまうものもあります。日本の書店システムはそのあたりをある程度包含して出来上がっていましたが、そこが崩壊しつつあるのは事実でしょう。でも、それはパッケージの話とは関係ないので割愛。

で、

というのも一面的にはそうではあると思いますが、コンテンツに仕立て上げる、という観点から言うと流通とか中抜き、というのは不適切で、編集とか装幀とかこれもあくまで発信者の一員としての活動なわけです。ただ、その組織が製品・広報もやっている一体性によって、この組織が情報をお金に結びつけている、と言えてしまうのはそうなんですが。

単純な話、人は情報コンテンツの付加価値をどこに感じるか、ということであり、パッケージいらん、中身があればいいって人はたくさんいるんです。どちらかというと、中身そのものの価値を高めるために、原発信者(いわゆる作者)以外の人が介在していると考えたほうが良いと思います。なので、パッケージは本質ではない。

ここでのキーワードは「ビジネス」です。ぶっちゃけAKB商法の全面的な肯定です。でも、実際にはあれって、パトロンシステムなんですよね。パッケージビジネスとして考えると、パッケージ自体に魅力があるということなんだけど、実際には同じものを何回も購入する。ファンクラブ会費を一口何円にして何口でも、というのが生々しすぎるのでパッケージを介在させている(ことによって業界全体に金を回すという側面も含めた)パトロンシステムです。安い電子書籍と高いパッケージに二極化すべき、というのもパッケージによる差別化といいつつ実の所パトロンシステムです。パッケージだから売れるのではなくて、その人だから売れる。所有欲を満たすという点はそりゃ0ではないと思いますが、ジャズやクラシックでの20bitリマスタリング紙ジャケ商法なんてのがある意味成功例ですけど、あれは廉価版なわけで、高価格だったらビジネスとして成立しない程度しか売れないと思います。
しかし、豪華版の話をしていないといいつつ、「高い物理書籍」って結果として豪華版だよね。