ユーザーに寛容を求めるサービスはデザインに失敗しているよ

寛容ってのは大雑把に言うと「本来は許さないところだが俺の権利を侵害しないんなら目をつむってやろう」くらいのものであり、元来優しさとかそういうニュアンスは含まれていなかったりしますよね。転じて心の広さを表現することに使われたりするけど、寛容っていう時点でその人が持っている規範とは反しているという評価をしていることになる。
なので、あるサービスについて「もうちょっと寛容に受け止めて上げようよ」というのはある意味究極の批判であるともいえます。
デザインにおいてトレードオフにせざるを得ないモノ(例えばセキュリティーユーザビリティ)について、寛容を求めざるを得ない場合があるのは、その観点からは本来こうあるべきだけど、別の観点のほうが重要だから実現できないのごめんねということですよね。なので、サービスの目的とかコンセプトとかいう根幹の部分で寛容を求めるということは完全にデザインに失敗している(目的が邪だったり手段が目的を凌駕していたり)ことを意味すると言えます。

僕たち自身に問題を引き当てるとすると、「私たちはどこまで他人に寛容になれるのか?」という問いこそが、studygiftの騒動から学べることだと思います。

studygiftとWishboneを比較する—私たちはどこまで他人に寛容になれるのか? : まだ東京で消耗してるの?

実はこういう綺麗事は嫌いではない。個人の規範の中に寛容を是とすることを取り入れるべき。でも、あくまでそれは個の姿勢であって、対社会として、寛容によってサービスを成り立たせようと考えることは間違っていると思うわけですね。studygiftの問題でいうと、そもそもコンセプトに欺瞞を感じ、寛容という枠では収まらないと思った人が多かっただろうし、ふたを開けてみたら詐欺的案件だった(当人たちはまだ微妙な言い訳をしていますが、知らなかったというのが免罪符になるなら法律家以外の人が犯した大抵の犯罪は無罪です。全力で土下座以外の解決方法なんてないぜ?)ということに対して寛容を求めるのは社会の規範から言っても筋違い。我々一人一人が寛容の精神を持つことと、サービスの問題点について寛容を求めることは全然違います。ぶっちゃけ、どんなに正しいサービスであっても批判はあると思いますが、その批判はそのサービスの正しさを説くことで跳ね返すべきなんですよ。
先に述べたとおり、寛容とは自分に害を及ぼさないのであれば目をつむってやる、という消極的反対でしかないのだと思うし、寛容を求める空気こそが本来イケダハヤト氏のような人たちが嫌う強調圧力そのものだと思うんだけどね。

別記事にて考察を書きましたが、寛容度を高めないと、生きにくい社会が来ると僕は考えます。「甘え」に見えてしまう状況は、これからどんどん可視化されていきます。

studygiftとWishboneを比較する—私たちはどこまで他人に寛容になれるのか? : まだ東京で消耗してるの?

人としての有り様や、思想信条という点においてはおっしゃるとおりかと思うんだけど、社会のシステムデザインという点においては寛容度を高めるというのは失敗をごまかすというのとイコールだと思うわけです。生活保護の問題なんてのはシステムデザインではなく、個に対するものとして取りざたされたから話がおかしくなっているだけで、studygiftの件は、どちらかというとシステムデザインそのものが許容されないよね、という話で有るのでそこのところを区別して人は何に対して寛容であるべきか、という問を真面目に考えないと、寛容度を高めるというお題目は成立しないのかなという疑問を投げかけておしまい。