学校が社会教育の場であるならばいじめは起こらない

本来学校が与えられた役割として子供の社会性を育てる、という面があるのかどうか。

子供には明確な善悪の区別もできないし、他者との関わり方も出来上がっていないという中で、一体どういうことを学んでもらうべきなのか。

少なくとも、好悪の感情を行動原理にすることを全てにおいて適用することは悪い結果を招く、ということくらいは学習させたい。その過程の中で、喧嘩をすることはあるだろうし、結果として暴力沙汰になったときに、それをどう扱うか、大人に管理されたコミュニティーとしてある程度社会的に任されている部分はある。子供のやることだからこそ、1ストライクアウトではなく、これから社会で同様のことをやったらアウトになってしまうよ、という風に悟らせることが肝要なのである。決してそれは社会に対するモラトリアムではないはずなんだけれども、少年法というものに守られてそう感じさせてしまう。そうではなく、きっちりと学校というコミュニティーの中で因果は応報するのだ、ということを実感されないと教育としての意味は全くないということになる。単に、犯罪の隠蔽をしているに過ぎない。

子供が起こしたことだから、すべてを刑事事件にするというのは行き過ぎだろうけれども、それはコミュニティーの管理が適切に機能していることを前提としている。大津の件は、どう考えてもそこは崩壊していて、因果が応報するどころか、人間には覆せない上下関係があるということを教育し、絶望させてしまっていた。

そのことは学校だからという言葉で免責されない。度を越えたら学校というコミュニティーの管理能力は学校、地域、地方行政の単位で問われるべきだし、警察・司法の介入が簡単に行われるべきである。教師や、PTAの責任は重大であるし、警察が介入する時点で管理責任として罪に問われるレベルである。それを避けるために自体を隠蔽することには重大なペナルティーがなくてはならないし、第三者の告発によって常に動く内務機関が存在すべきだと思う。

それができないのであれば、学校というコミュニティーに社会教育という重大なものを委託することはできないのではないか。

学校で起きていいのは、学校内で罰を与えられるレベルの喧嘩だけだと思う。それ以上になった時に外部に適切な処置を依頼することが学校の役割であるべき。